共同体と個人

個人としての意見をいおうとすると、「(外)敵の有利になるような身内批判をするな」とか、はたまた「共感できる・できない」とか「傷ついた」とかになるのは何故かというのが、もうずっと前からワタクシの素朴な疑問としてあった。個人が個人として立脚していない環境で「一致団結」や「連帯」というふるまいばかり求められる(目的がそれ)のでは、それはその元になる思想がなんであれ、全体主義への道なんだわ。
いやまぁ、意見の多様性からいってそゆ意見もあってしかりではあるが、殆どそゆ意見ばかりとなると、正直頭をかかえる。そのココロは平たくいえばいずれも「自分(達)の絶対無謬性を否定するな」ということだからである。不利であろうが自分の意図があろうがなかろうが、あるひとつの現象に対してだされた文言について、その(公的)ポジションをはずして妥当かどうかを検討しようという気がさらさらない。なんについても帰結がいつも決まっている者の思考に、<個>ははたしてあるのであろうか?いや実は、方便としての個人というフィクションを作り出して、都合により使い分けしているのでは?ではその時、帰属を意識するポジション=共同体とはなんなのであろうか?
共同体とは個々が共有する共同幻想。その1つか2つの共同幻想に皆が収斂されてしまう時には光り輝いていた個別主張も、多様化する現状の中では埋没してしまう<個>ならば、個人にとって主張する意味がなくなる。自分という主体を強く意識するものの、ではそれをもってして社会にどう対峙していいのか分らない。「自己決定の個人主義的自由追求」という全能感的欲求は拡大すれど、昨今の多様化世界ではすぐ相対化され陳腐化して実績は続かず万能感に引き籠りつづけること自体難しい。そうなるとあとは本来誰しもが持てたはず(実はそれこそが幻想なのであるが)の実績等を社会に求めて「公共平等化」に片足をおく。なんでそれが両足でないかといえば、「したいことをしたい、やりたくないことはしたくない」という本音は死守しているからである。それがやみくもな責任回避にもなる。前回カキコしたとおり、社会的承認と責任とは一定の相関関係にあるのだが、なにしろ「やりたくないことはしたくない」めんどーな責任回避第一だから、社会的承認をゲットできない。
さて本音「自己決定の個人主義的自由追求」だが等分責任はとりたくないで、建前「公共平等化」というポジションをとった者は、引用した木村敏の文言通り共同体が唯一のアクチュアルになり、そこから導きだされた「今一番アクチュアルな<個>」のふるまいを型どおりに模倣勉強する=大いなる主体に沿うことで自己主体(責任)はずしということしか身の振りかた=失敗・負けないやり方が残されていない(と思い込んでいる)。
したから、内輪的にアクチュアルでない<個>のふるまいを「(外)敵の有利になるような身内批判をするな」と「諌め」たり、崇高なる内輪理念をもって「The Facts」なる英文を出したり、誹謗中傷を繰り返したりして「敵=世界にものもうす」ふるまいを属する共同体にむかって誇示してはばかることはひとつもない。いや、共同体に<個>という自己存在を誇示する為にも、悪しき敵は必須なのである。それに共感できない者は、空気よめない「慮り」がない者となるのである。


・関連
公私のボーダーライン
http://hizzz.hp.infoseek.co.jp/atrandom/h_rog/014_txt.html
人里離れた森の中 id:hizzz:20040324
ワクの倫理性 id:hizzz:20040522
innnernetなやすらぎ id:hizzz:20040716
視覚の快楽 id:hizzz:20050226
日本化を纏う日本 id:hizzz:20050505
〈史観〉政治の欲望 id:hizzz:20050521
社会的トラップ id:hizzz:20050615
アイデンティティの袋小路 id:hizzz:20061005
個人というフィクション id:hizzz:20061022
付き合い方の再編成 id:hizzz:20061101
モラルとルールの運用 id:hizzz:20070223#p2