「やおい」とは別系統の「腐女子」

趣味媒体が同じなので「やおい」が「腐女子」の親元と単純に思ってたけど、しかしそれではどうにも両者の主張するとこの筋がとおらない。よくよく考えてみれば、三無主義でエロ・グロ・ナンセンスなパロディ発「やま無・おち無・意味無」で元々アイデンティティすら否定している者*1ならば、ネガティヴにでも自己を主張している「腐女子」を自称することはまったくその意思に反する。そもそも90年代になっても「おたく」以上に誰も「やおい」を自称してないし、上の世代程その趣味趣向自体を隠しているのが多数だしね。であるならば、この2つは似て否なる系統としたほうが、すっきりする。
00年以降になって「腐女子」名称が出現しだし、それが少女当事者世代のゴシックロリータだけでなく、遡って上世代(30代)に迄自称アイデンティファイされてくる。それはやはり90年代のアタシ探し「本当のアタシ」から派生した、「生まれたままのピュアなアタシ」の影響が転じたアタシ自身がなによりの本当・たったひとつの真実と感じ続けるには表層をフェイクで張りめぐらせるとか、もう若くない女子である自虐エクスキューズなど、より複雑な自己承認のひとつとして腐属性関係を引受けたということも、ジャンル市場が出来てストレートに「腐女子」入魂する下世代より多くあるのではないだろうか。一般向けに分かり易いカタチで「腐女子」が可視化できないのも、プレ〜第4世代とおたくが変遷してるのと同じく、「少年ジャンプ」1冊で済んだ少年漫画に比べ分化して少女漫画&ファッション誌が成立していたごとく、当事者たちの「女子」に対する思い入れ=意味づけが立場世代ごとに違い、なおかつその上に個別自己をアイデンティファイする作業をしているからだろう。そんなに内実がバラバラならば違う名称を名乗ればいいのにとも思いきや、違うからこそ、同じ「女子」という体制下にいますよいうフェイク枠が、社会への「安全保障」として必要なのである。
なんでこんなにややこしい自己承認をしようとするのかと考えるに、男性と子供との関係からその在り方=立場を決定される相対的な存在として女性が可視化認知された近代以降、その女性性関係にある対なアタシなままに、社会的承認のない唯一のアタシとして立脚しようとすると、とたんにこうした矛盾をつくろう羽目に至るのではないだろうか。

未来の修正というのはできぬが、過去の修正ならば出来る。そして実際に起こらなかったことも、歴史のうちであると思えば、過去の作り変えによってこそ、人は現在の呪縛から解放されるのである。

寺山修司寺山修司の仮面画報

*1:70年代にはいわれてなかった「原作者への愛」は、「おたく」が可視化され複製文化の著作権と共に叩かれ出した90年代からの、後付なお約束。