自己創造の欲望

倖田來未が「35歳まわるとお母さんの羊水が腐ってくる」とかましてバッシング。まー、「女は生む機械」並にどー考えてもこれはアウト。自身が否が応でも羊水腐る年齢になるってことはハナから頭になかったらしい、そんな彼女は25歳。唐沢俊一が「裏にはミュージシャンに広がっている『ピュア信仰』というのか、自分がキレイなままで、若く美しい、けがれのないままで、みたいな信仰がすごくあって、キレイな体とかいった発言につながった」と指摘。直近の別番組では「ピュア系乙女作戦」に取り組んでいると。騒動後は「こんなアタシはもう愛の歌は歌えない」と号泣したとか。「問題発言して人を傷つけてしまった=ピュアじゃないアタシは、美しくキレイな愛の歌は歌えない」ってことなんだろう。はぁ。。あいかわらずわかってない。でもそれで、「くぅちゃん、かわいそう」って共感しまくる子が可視化することを狙っているんだろうな。>マネジメント周囲
そゆ価値観で物事を序列化することを身体化してるから、それで自己肯定(アイデンティファイ)をしようとすれば、そうでない対象をそれが自己であろうとも無意識なうちに卑下してしまう装置となる。だから、自己を肯定するアイデンティティの為に幸先の自己否定というひどくねじれた作業を通して自己規定を遂行する。その為の弛まない努力、歌唱・ダンス・メイク・ファッション・ボディシェイプ等々の極限で創作されたのであろう理想図「倖田來未」表象、しかしそれが(今回発言のように)1つでも破綻すると、表象システムの一環に組み込まれてしまって薄くなっているので還るべき地場自体から揺らぐ。この際、ゆっくり誰かきちんと彼女を解毒してあげればいーのにな。
「女性の人生は色々」と選択肢がひろまった90年代に、逆にその膨大な多様性に抵抗してなのか自己規定を強化しエッジをたてる形でセクシュアリティアイデンティティを確立しようとする女性達は、その属する思想(保守・フェミ・クィア)を問わず広がった。「ピュアなアタシ」っつーのは、その頃の自己肯定で流行ったんで耳タコなんだが、昨今のヒーリング・スピリチュアルブームで又息を吹き返しているのだな。「ピュア」は一番シンプルでわかりやすいっちゃあわかりやすいネタだし、「美しい」とか「セクシー」とかいう手練ものよりも、「誰にでもあるハズ」って性善説なトコが、「生まれたまんまはキレイ」な原理主義的全自己容認として受けるんだろうなぁ。抱えた色んな自己欺瞞をありとあらゆる保障をしてもらってバリアーはりめぐらして表面整合性をつけなきゃもたないアタシの深窓ぶり、大人になるってそんなに大変な怖いこと?あぁ、だから「乙女」で「女子」属性でいたい為の「ピュア」のか。「ピュア」の裏としての「腐」女子とかも誕生する。。。
性別関係なく、自己をどのように表象させていくのかは自己決定の自由の範疇で、各自勝手にやればよいのであるが、なんにせよ理想による自己規定なんかは程々にしとかないと、生真面目な人が陥りがちな強迫観念はその目的遂行の為ならば自分から自分を締め出すとか、生身たる自分をとんでもないところに追いこんでしまうのだ。