近世・江戸:官僚侍の武芸

id:hizzz:20050514以前さんざん書いたが、経歴でっちあげて「征夷大将軍徳川幕府。大久保(彦左衛門)忠教『三河物語1622年は、将軍家として遠くなった主君との関係を、艱難辛苦を共にした三河時代から語ることで子孫たちに徳川への忠勤を説くが、武訓というより太平記と同じく民衆講談ネタに。
宮本武蔵五輪書』1645年は「兵法者といひて世を渡るもの、是は剣術一通の事也」、要は剣術の本。しかし、武術や兵法の進歩を考えれば、ニューテクノロジーたる鉄砲がそれに組み込まれないと変。ところが、もはや鉄砲は為政者独占(鉄砲がり)となった後に、鉄砲使えない戦略をあだこだいってても始まらない。将軍家指南役・柳生家も「剣禅一如」で、いかに戦うかよりも戦いへの平時の心構えを説く。こうして、実践を封鎖された武術は、「武芸」に返還された。
しかし、武士使用法としての兵法はそれではこまる。戦闘能力が高まれば、不満があればただちに下剋上されるもの。という訳で山鹿素行は、孫子儒教をミックスして「平時は仁義・乱時は権謀」なる『士道』1663〜1668年を説いた。当時、ダブルスタンダードとの批判もあったが、「武」より「士」、これが徳川政権のシビリアンコントロール下の侍規範となる。朱子学者・貝原益軒『文武訓』1634〜1714年は、日本の武道は仁義などといってられない戦い、文学(=儒学)なき人は道理にうといと武道批判した。
さて江戸中期、佐賀で山本常朝『葉隠』1716年は生まれたが、幼年期の聞き覚え(父親が70歳の時の子供)からひたすら佐賀藩主(鍋島藩)との「忍ぶ恋」主従関係を強調する為の特定周囲への批判などがあり、身分序列と礼に反するとしてあえなく藩内発禁という異端の書。
という訳で、かって現役戦闘者だったのは、武蔵と彦左衛門な位で、ここに書かれていないのも含めて「士道」「武道」「武士道」エリアものは、全て後代著者による誰かの伝聞または創作。精神思想としても著者によっててんでばらばらで、同時代の儒学-朱子学にみられるような体系もない。