近代・明治以降:皇軍思想としての武道

1876年(明治9年)、廃刀令公布で帯刀禁止。山岡鉄舟『武士道』1860年は、以前には「武士道」という言葉すらなかったとして、剣道の極みとして「形か、心か」「善を知ることか、善を行うことか」という問をたてて、心を主体とした神儒仏三道融和の道念として自己創作言葉であると「武士道」を考えた。剣客にして無刀流の開祖であり本丸・江戸城無血開城の立役者が、そもそも「武士道」があったと知らなかった。つまりそれ程に「武士道」マイナーだったということであろう。ここいらへんで「武芸」は「武道」になったのか、も?
西周・陸軍卿山県有朋の『軍人訓誡』1878年明治11年)、『軍人勅諭』1882年(明治15年)は、天皇を頂点とする絶対服従・滅私奉公を普遍原理な国民道徳として発布。(徴兵令1873年、『大日本帝国憲法』1889年、『教育勅語』1890年)
新渡戸稲造が米国で書いた『武士道』1900年(明治30年)は、米国で英語出版された。新渡戸自身特にそれ以前の「士道」「武道」「武士道」的文献を読んでいた形跡はないが、米国で見聞きしたヴィクトリア時代精神&プロテスタント規範を、自己の「日本的精神概念」と思われるもので置き換えて説明づけたもの。それが逆輸入されて国民的に爆発的人気を呼ぶのは、日清戦争1894年(明治27年)〜1895年(明治28年)勝利で中国を軽蔑することが出来た(主従関係の逆転)後ロシアに日本が勝った理由として読まれた日露戦争1904年(明治37年)〜1905年(明治38年)後であった。内村鑑三「武士道と基督教」1916年は、「武士道は神が日本人に賜ひし最大の賜物であって、これがある間は日本は栄え、之が無くなるときに日本は亡ぶるのである」と大賛美しまくり。
そして『葉隠』が佐賀県以外に知られるのは、1906年明治39年)小学校教員が自費出版したことから。日露戦争後の「西洋列強入り」盛り上がりの中で1912年の殉死事件をもって、一般ウケしない無名な藩主と党郎なんぞより、明治天皇乃木希典という超大物具体像とむすびついた『葉隠』派は、勅諭&勅語の精神とその当時流行っていた「日本古来の武士道精神観」イメージを一体化して心情闘魂注入する。
更に井上哲次郎『武士道全書』1942年(昭和17年)は、「今後武士道的精神を研究し発揚し、将来世界に於いて皇国の権威を維持するのみならず、益々是を発揚するために、何うしても武士道的精神を十分涵養して之を子孫後昆に伝へなければならない」と皇国権威の維持&発揚と「万世一系の国体」に直進する。

(武士道というものは)健康であることよりも健康に見えることを重要と考え、勇敢であることよりも勇敢に見えることを大切と考える、このような道徳観は男性特有の虚栄心に生理的基礎を置いている点で、最も男性的な道徳観といえるかもしれない。

三島由紀夫葉隠入門

もともと「学問」でもなかった「武士道」には、なんのお墨付きもない。武人と称された人々の自己吐露や逸話をネタに、後の者の好みでチョイスしてつないだのが「武士道」という名称で数多あるということである。そしてそれをまたまた後の者が自己論旨に合わせるべくチョイス&解釈したのが、「本来の武士道」とか「日本古来の武士道」という武士道観が創作され続けるのである。本物・偽物という本質主義な判断基準でジャッジすること自体が、史実に合わないのである。
「日本人本来の」というのが最初になにかあるのではなく、その時代に合わせて「創作される伝統」、こころや精神というのは、元来そういうものでないだろうか。

混沌とした中から、ひとつのエッジを立ててモノやコトやひとについて名称をつける「名指し」とは、呼ぶものと呼ばれるものとの関係を意識したときから始まる。中心を持つ文化は周縁を必要とする。>id:hizzz:20061005 と、すれば、「武士道」を男性規範として見れば、その鏡映像としての女性規範が立ち上がることでもある。>id:hizzz:20040524

てなことで、国民道徳とジェンダーについては、また。


・参考
日本倫理思想史研究〈第2〉武士道の思想とその周辺』古川哲史
武士の成立 武士像の創出』高橋昌明
思想課題としてのアジア―基軸・連鎖・投企山室信一
人類にとって戦いとは〈1〉戦いの進化と国家の生成』佐原真