モデル・マイノリティの内実

「われわれ日本人」とか「われわれの日本語」といった日本の自己同一性をめぐる主張がいかに特異なものであるかを本居宣長研究を通して解題してきた子安宣邦は、西洋・東洋という意識を以下のようにいう。

西洋の文明史的な立ち上げはかならず非文明的・反文明的東洋の記述をともなうものである。東洋とは19世紀ヨーロッパの文明史的自己認識にかならずともなわれる反対像であった。ギゾーにとって西洋の反対象・非文明の東洋とはまずインドであった。ヘーゲルにとってもまたマルクスにとっても先進西洋の反対像はインドであり、やがて中国であった。西洋の経済的・政治的・軍事的な膨張する視圏に登場し、包括されていったのはまずインドであり、やがて中国であったということである。福沢諭吉にとって反文明的なアジアとは専制の王国としての中国であり、わが専制的な古代日本であり、またその専制的支配の遺習である。これはヨーロッパ文明史を範型とした福沢の文明史的言説がもたざるをえない構造的な特質である。

子安宣邦「アジア」はどう語られてきたか―近代日本のオリエンタリズム

京都学派の「世界史の哲学」もしくは「世界史的立場」*1がついに日本の帝国主義的侵略を糊塗する哲学的な粉飾の言説にしかならなかったのは、非西洋の日本という地政学的な要請に応えることに急な哲学者たちが遂に自己の哲学的言説を対抗の言説としてしか構成しなかったからであるとする。<主体の不在
例えば、「日本」という地場から引きはがされた日本人という立場=第二次世界大戦時の日系移民が日系人であるというエスニック・アイデンティティと、アメリカ人であるというナショナル・アイデンティティを、日系アメリカ人のなかでどう捉えていくのか、そこで京都学派的「世界史的立場」なるものが立脚するかを考えると、それは一層明確になる。「日本文化論」そのものがイデオロギー的虚妄であるとするハルミ・ベフは、日系移民研究をとおして『日系人とグローバリゼーション―北米、南米、日本』、19世紀後半に西洋植民地が日本に政治的・文化的に侵入してくる複雑なプロセスとそれに抵抗した明治日本というグローバリズム現象が、必然的に「中心」と「辺境」としてグローバリズム経済の一部として取り込まれていったことが、日本が「搾取される国」と「搾取する国」という両面をそなえるようになった歴史的経過を意味するという。また現在、南北アメリカの多くの日系人は、日本人ではなく「日系人」として自己規定し、交流していると観察する。そして、アジア系「多文化主義」が結局1文化主義の寄せ集めと化しがちな反省から、「相互文化の感受性“Intercultural sensitivity”」が提唱されている。

*1:藤田親昌編『世界史的立場と日本』昭和十八年、第一回座談会「世界史的立場と日本」http://www.orcaland.gr.jp/~maro/haniya/sekaisi~1.html