解釈・文学主義と歴史修正主義

網野善彦は「日本史の文書主義=実証主義の弊害は実に恐ろしく、世界史的にも稀である。」といい、中世&エゾの歴史を研究する海保嶺夫は「書かれていなければ、何もなかったとするような、とんでもない歴史認識がまかり通っていた」という。事実は、文字として記録された「書類」に事実の有無を規定されるものでないというのは、歴史にもあてはまることである。
戸坂潤は、思想の自由が方法論として解釈哲学→文学主義を産むのと並行して、文献学主義を産み、「現実の事物の代りに文書乃至文献の語源学的乃至文義的解釈だけに立脚する」極端な例として、歴史の文献学主義的な「解釈」を挙げている。

自由主義の意識は、その本来の淵源を所謂経済的自由主義の内に持つにも拘らず、思想としての直接の源泉は之を政治的デモクラシーの内に持っている。だが自由主義思想は決してデモクラシーという観念内容に終始するものではない。それはもっと広範な観念内容を含んでいるが、そこから、自由主義思想には、ありと凡ゆる内容が取り入れられることが出来る、ということになって来るのである。

一体自由主義が本当に独立した一個の思想として成り立つかどうかが抑々の疑問なのである。と云うのは、一定の発展展開のメカニズムを有ち、自分と自分に対立するものとの甄(けん)別を通して自らを首尾一貫する処の、生きた論理組織を、自由主義が独自に持てるかどうかが、抑々の疑問なのである。だが仮にそうした自由主義の哲学体系が成り立ったとして、そうした「自由主義」哲学は必ずしも自由主義思想全般の忠実な組織であるとは限らないのである。なぜかと云うに、自由主義的思想にはありと凡ゆる観念内容が這入り得るのだったから、仮にその観念内容を理論的な哲学体系にまで組織したとして、果してその体系が、依然として「自由主義」という名目に値いするかどうかが、保証の限りではないからである。つまりそれ程、自由主義思想の観念内容は雑多で自由なのである。

自由主義思想にぞくする内容の一つには、で社会的政治的観念からの自由、とも云うべきものが含まれている。そこでは専ら文化的自由だけが問題となる。

戸坂潤『日本イデオロギー論』http://pfeil.hp.infoseek.co.jp/B2/FRAMEB2_3.HTM

はてなキーワード歴史修正主義」の定義が話題になってるようだが、自分の思いたい歴史を見る為に言葉の印象操作をする個々のアレコレといった方法論以外の、触れられていない根の深い地雷原のいくつかを以下掘ってみる。