なせばなる、近代日本の淵源

日本単一系統な国体論の起源は江戸時代に求められるのが常であるが、「征夷大将軍」な幕府では、支配外地域の「夷」、辺境には外様大名…というように地域や身分を厳格に区切り周辺配置固定することで成り立つ幕藩体制下で、士農工商これ全て1系統だなどという考え事体、まさに下剋上、まったくもってありえな〜い。この時期日本人の起源をさぐった説としては、発掘される遺跡は大陸から進入した民族(粛慎族)がもたらした石器であるとする、新井白石の粛慎論などがある。大森貝塚を発見したモースやシーボルトは、かって日本列島には別の先住民がいたという説をたてており、幕末〜明治期の欧米知識人による日本人の「人類学的」風貌観察では、複数民族混合説であった。と、いうことで、琉球蝦夷地を領有し、台湾・朝鮮を併合し、樺太・千島をロシアと分け合い、中国大陸や南方侵略する大日本帝国支配地域内の異民族の存在と、天皇を祖先とする一家族という国体論は、実態と理想の大矛盾をかかえていた。そこで、日本論者たちは、あらんかぎりの拡大解釈と粉飾に知恵を絞り、実態と理想を理屈づけた。
id:hizzz:20080309#p3でちろっとふれたが、『幕末の宮廷』によれば、お歯黒し女官達に取り囲まれて雅にふけってた御簾の奥の御上を江戸に引きずり出し、髷を切り鬚をはやし軍服を着て勲章を付けサーベルを持ち、その写真を基にイタリア人キヨソーネに近代西欧皇帝らしさを加味した「御真影」を描かせて「大日本帝国大元帥」な表装を明治政府は仕立て、国内外に提示した。んで、大日本帝国憲法発布。いちおうそれで西欧近代的「立憲」と「君主」のカタチはでけた。いや、それが、カタチだけ設えたものだった。したからこそ、これ以後カタチの中身をめぐっての解釈談義で、ワケワカメなぐだぐだになる。とりあえずその「立憲君主制」と国民を結ぶ根拠となるのは、前時代・幕藩体制の名分論(上下関係での守るべき道義や節度、出処進退などのあり方)であった。旧幕藩体制から一刻も早く近代化して欧米の脅威を超越する目的の為に維新となったその立国根拠が、儒教・水戸学的名分論という矛盾。トホホ。
明治黎明期の欧化主義は、大国・清の凋落を目の当たりにした幕末からの危機感がバックボーン。薩摩藩から琉球を引継ぎ、台湾を併合し、明治維新のように李氏朝鮮を開国させるのに失敗した啓蒙主義者達の頭にひらめいたのは、西欧列強がもたらした地域区分=オリエント=アジアでブロック化して西欧に対抗する「アジアはひとつ」アジア主義
しかしアジア主義万世一系な名分論では、基が多元と一元という大きな矛盾がある。「日鮮同祖論」「内地雑居論」「日本民族白人説」などいろいろとびかったが、日本的「家」組織をベースにした国体論が国内的に最も落ち着きがよかった。天皇大親とした大日本帝国の基にアジア諸国民が集う図である。ただしかしこの家制度は、同じ儒教国でも、父系統を厳格に区別する中韓と、婚姻でも養子でも受け入れてしまう日本とでは、大きくその運用が違うので、中韓でさえ理解できない論理であった。この氏家制度があるからこそ、政府は創氏改名した朝鮮人の本籍内地移管を禁止することで、帝国民の中に日本人と朝鮮人のラインを引いた。
そゆ国体の構図は、どーしたってそのてっぺんの親分・天皇の親政にしかみえない。しかし名分論としては、「よきにはからえ」不執政で、忖度制度でなくっちゃならない。そこで、天皇機関説なるものと統帥権で、天皇・国体をなんとか祭の神輿状態にして集団護送で主体不明にする。公用語として「八紘一宇」の外国語表記をどうするかで1939〜40年に帝国議会で審議されたが、「原則として之を外国語に翻訳致さない」という意味不明なことに帰結。*1

1941年9月30日に海軍省調査課が開いた思想懇談会では、国策標語としての「八紘一宇」が取り上げられて検討されているが、出席者からは「日本の国策は他の国の動きに左右されていて本当の国策の確立がないから内容がどんなものでも入る様な言葉を造って来た」「スローガンとされるのはすべて漢語である。漢語の一つの特徴は、はっきりした内容はなくとも言葉があるとそのところに何らかの内容が生まれて来ると思わせることである」(谷川徹三)「内実に入らせないために神武天皇の御言葉をとったと云える。批評を許さないためにお言葉をとって来たと云える」(藤田嗣雄)などといったように、この語が実際には内容空疎なスローガンでしかないことを痛烈につく声があがっている。しかしながら、それでもなおこの語は一貫して国策理念とされ続けたのである。

長谷川亮一『「皇国史観」という問題―十五年戦争期における文部省の修史事業と思想統制政策

ま、ここいらへんの無理やりが一番ワケワカメな「日本特殊論」の素地なんだろう。
多元的なアジア主義は日本特殊論的ナショナリズムに普遍的価値をプラスしたが、南北朝正閏論争以降は衰退し、津田左右吉の神代史を強調した皇国史観が出てきて、アジアを超越する大アジア主義*2=東亜新秩序に。
「アジアを超越する」とは、中華文明を日本文明から排除することである。中華文明なき日本とわ…、朝廷貴族でも坊主でも帰化人文化でもない、、、「(徳川)武士の時代」なんである(出ました奥さん!)。だからこそ、過去の訓話などから「武士道」がひっぱりだされ皇国史観に解釈しなおし皇紀神話に後づけ意味付与されたのである。>id:hizzz:20080302
場の論理西田幾多郎や「風土論」和辻哲郎らの日本の立ち位置の特殊論=狭義の定義の補強をへて、客観的日本史ならぬ、史家の自己完結的な「日本史観」としての叙述史「日本主義」とそれはなったが、それは一部エリートのものであった。
伝統の近代的読み換えにアジア主義が活用されたと見る小路田泰直は、大衆は植民地拡張の現実に即したアジア主義にあり、白樺派〜京都学会派で育まれたこうした形而上日本主義のもたらす「公共性の観念」は相いれなかったとする。そして戦後、その形而上日本主義が誕生した大正デモクラシーファシズムの解釈をめぐって、戦後歴史学にもちこされてしまったものがあるという。

アメリカの占領下、ポツダム宣言に基づく民主化の波が日本を襲ったとき、日本の歴史家たちは、それを何とか、ファシズムで断絶させられた自分たちの伝統の復活ととらえようとした。ドイツが、第二次大戦の敗北を、ナチズムの敗北であると同時に、ナチズムの台頭を許したワイマール共和国の敗北でもあるととらえたのとは、対照的であった。しかしこうした問題意識を持ってしまったために、戦後歴史学には、一つの黙契ができあがってしまった。それは、1920年代のデモクラシーと1930年代のファシズムとの間には超えがたい断絶があり、30年代のファシズム20年代のデモクラシーの必ずしも必然的な帰結ではなかったと考える黙契であった。

ファシズムと戦争を何よりもまず、「我々」の行為の帰結としてとらえる、主体的歴史認識の欠如をもたらした。それを、世界恐慌の勃発やそれにともなう軍部の台頭といった、「我々」にとってはどこまでも他者である誰かの作為や、状況に帰せて説明する、没主体的な歴史認識をもたらした。

もし1930年代のファシズムと戦争が、1920年代のデモクラシーの必然的帰結であったとすれば、敗戦の責任は当然「我々」にもあるということになる。逆に、1920年代のデモクラシーと1930年代のファシズムの間に、何らのつながりもなかったとすれば、「我々」には何の戦争責任もないということになる。
第二に、歴史の発展や変化を内在的にとらえようとする思惟そのものの退化をもたらした。自らの社会の犯した最大の歴史的犯罪を自らの主体的行為の帰結としてとらえることをあえてせず、いとも簡単にそれを国際情勢の変化や天皇制や軍部の作為に帰せて説明してしまったのである。それが歴史の変化を内在的にとらえようとする思惟の退化につながったとしても、それもまた当然であった。

小路田泰直『日本史の思想―アジア主義と日本主義の相克

*1:「東亜新秩序」は、“new order of east Asia”

*2:大川周明石原莞爾西田幾多郎など