孤独な帝国

明治政府のような文化啓蒙による朝鮮開国近代化に肩入れしてた福沢諭吉は、近代化に伴う中国・朝鮮・日本の緊張関係を以下のように例えた。

三国の交際に於て、朝鮮国を一個の少婦人に比喩して、日本と支那と二男子が其歓心を得んことを力めて、日本は早く既に情を通じたれども、今更往時を回顧すれば唯一旦の熱に乗じたる挙動にして、結局我が得策に非ず、彼れも一時の夢なり、此れも一時の夢なり、醒めて徐々に身の覚悟こそ大切なれとて、全く断念悟道して満腔洗ふが如くならんとせん。是に於て一方の支那男子は毫も自省の念なく、得々其欲を逞ふして飽くを知らず、臨機応変、只管其新に得たる歓情を固くせんが為に、時として故さらに日本人を侮辱することも多からん。

福沢諭吉「東洋の政略果たして如何せん」1882年

長年の冊封体制という清の属国からの朝鮮独立党革命の甲申事変1884年の失敗に、諭吉は非常に落胆し、「脱亜論」を『時事新報』紙上に発表したのは1885年である。小中華であろうとした李氏朝鮮から、日本主導型の欧米化をめざした開化派への援助=親日ルートが瓦解したことが、1910年韓国併合という直接介入に傾く理由となっていく。
第一次大戦で5大国入りしたと思っており親米的であった日本人に、日系移民を「帰化不能外国人“aliens ineligible to citizenship”」と断定した、1924年米国排日移民法は、「衝撃」として伝わる。特に新渡戸稲造などの新米派たちが被った影響は大きかった。これ以後、欧化主義の反動と共に反米感情がメディアを覆うようになる。
また、軍事勢力拡大する日本そのものに、欧米では「黄禍論」がさかんにもちだされるようになった。このような欧米との亀裂をなんとかしようと、古き良きジャポニズムを全面に掲げた「美しき日本(Beautiful Japan)」キャンペーンは、1930年に行われた。>id:hizzz:20070126#p1
ドイツ語圏に黄禍論に表れた「男性の危機」 川島隆
http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/report/2-pdf/4_bungaku1/4_10.pdf