著作物とは何なのか?

自分達の活動を主題としたドキュメンタリー番組で、自分達の意図と違う編集がなされ放映されたとして、「信義則」に基づいた「債務不履行責任」でNHKを提訴してたVAWW-NETジャパンの最高裁審理は、4月24日。当映画とこのNHK裁判と絡めて、判決どっちに転んでも痛手と見る向きがあるやもしれない。が、それは「表現の自由」「(もつものと持たざるもの)弱者への人権侵害」等のイデオロギー*1に支配されすぎているから、全体整合性を欠いた支離滅裂になる。俯瞰であくまでもテクニカルに腑分けしていば、整然と答えはでるのではなかろうか?
ワタクシ的には、著作の「表現の自由」と著作構成材対象元への(事前・事後に関わらず求められる)「説明義務」はイーブンであるが、著作物はなにより著作者の発想および「表現の自由」な視点が基礎となるからこそ、独自の著作権が自然的に成立しうる主体権利と考えているので、双方事前の具体的約束がなされていない限り「「信義則」に基づいた「債務履行責任」」*2という忖度をする責務は制作側にはないと見る。著作物は著作者の主体意図物であって、中で取り上げられている素材ネタ引用または出演者の意図に沿う「広報」「広告宣伝」物ではないってことである。
ここで間違ってはいけないのは、報道を含めて著作物は、「中立・公正」などという価値一元化の基にあるものではない。作者固有の私的な独創思考=作家性の基にあるのである。従って著作物≠公共物。著作物創作したただそれだけでは、ただの恣意的な私有産物にすぎない。その恣意的なものが個々に様々な手段で社会に続々投企されることに依って、社会相対として著作物の価値の多様性が全体担保されうるのである。その様々な視点からの数多の著作物に触れることにより、人々の思考や感情や創造やコミュニケーションが多いに促進されうることこそ、個人主体著作物が社会的意義をもつ=社会性の獲得。著作物を媒介にした人々の間に生成するそうした「社会認知」の共有それこそが、「公共性」を取得した著作物ではなかろうか。そういう意味で、映画『靖国YASUKUNI』は、メディアが騒ぎ議員が国会で質問する程の社会論議を呼び起した=社会認知された「公共物」となり得ている著作物なのである。

著作者人格権(同一性保持権)に関する議論 クリエイティブ・コモンズ
http://www.creativecommons.jp/news/2006/11/15/ccplv30_1.html
なぜNHKを提訴するのか VAWW-NETジャパン
http://www1.jca.apc.org/vaww-net-japan/nhk/etv2001.html
http://www1.jca.apc.org/vaww-net-japan/nhk/index.html
期待権」って? 番組構成師 [ izumatsu ] の部屋
http://plaza.rakuten.co.jp/izumatsu/diary/200403270000
メディア・ナショナリズム id:hizzz:20070109#p3

*1:フラットな「多様性/多文化」という現代への抵抗=文化戦争に突入して、自己決定の個人主義的自由追求か人体的自然管理として公共平等化追求か

*2:雑誌やドラマや映画、ドキュメンタリーでも、消費者には独立した著作物のようでいてスポンサーがついた全面または一部編集タイアップ企画物という制作形式は、現に報道・商業出版物でも沢山存在する。