ココロ平等社会にはりついてくる、不安解消という名目の全体主義

刑事訴訟法は「判決は確定から六カ月以内」に法相が刑の執行を命じなければならないと定めている。死刑制度がある以上、それに従うのはやむを得ないとの声が多くなっているのは確かであろう。だが、宮崎死刑囚の裁判は刑事責任能力の有無が争われ、判決が確定するまで約十六年もかかっている。にもかかわらず、心の闇が明らかにされ、「なぜこのような事件を起こしたのか」ということが十分に解明されてこなかった。
宮崎死刑囚が、自ら引き起こした連続誘拐事件をどう考えていたのか。幼い命を奪ったことを反省していたのかどうか。刑の執行によって遺族に対する気持ちも闇に葬られてしまったが、彼自身の心の動きについてもっと光を当てる時間があってもよかったのではないか。

沖縄タイムス社説『[宮崎被告に刑執行]心の闇を閉ざしたまま』
http://www.okinawatimes.co.jp/edi/20080618.html

要は、「心の闇」を「反省」という言葉で宮崎が表してから死刑執行せいということなのかな。いや、しかしそれを求めるのは裁判中であり、そこで刑執行に値する1個人格と司法最高決定機関が下した以上、それと同等に黙秘権その他が被告の意思として存在していることを、人権として尊重すべきであろう。それをなにがなんでも、ほんのちょっとでもいいからこちら社会の常識=反省吐露をさせなければ、こちらの「心の闇」が払えない=みんな均一社会という前提がくずれる不安なんだろうな。>共感=情状酌量の余地を許さない絶対個人=異質への畏怖感
それよりもなによりも、それを求めうる責任主体は、どこの誰某と具体的に問わないことが、この文章では不明なまま、茫漠とした感想を持って社説として通って澄ます世界こそ、ちょー怖いんだけど。>法律か、裁判所か、裁判制度か、精神鑑定か、収監制度か、死刑執行制度か、等々

日本では、「連携」「調整」「協力」などという美辞麗句が飛び交い、「みんなで仲良く心をひとつにして」といった安直な発想から、権限と責任が不明確になり、マネジメントに支障をもたらしていることが少なくない。また、こうした美辞麗句が飛び交うときは、権限を持つ「決めるべき人」が「責任をとるということ」を回避するために、決めるべきことを「決めていない」という場合も多い。
例えば、会社でも行政機関でも、日本の組織ではよく起こることだが、「決定」や「査定」などを行う権限を持つ「上」の部局と、提案や要望を出す「下」の部局がある場合、下の部局の提案・要望について、上の部局が「おりろ」(取り下げろ)と言ってくることが多い。…自分で「決定」を行った場合は、その決定について責任が生じるからだ。…こうしたこと(責任問題)が起こると、上の上に対して上の部局は「下が下の判断でおりた」(責任は下)と考え、下の部局は「上の指示で撤回した」(責任は上にある)と考えがちになり、「外」(行政の場合は国民)に対する責任も曖昧になってしまう。さらに、「上」からの意思表示が、「おりろ」ではなく「いかがなものか?」などという疑問文である場合さえある。
このように、日本の組織では、「上が強権を発動すること」よりむしろ、「上が決めるべきことを決めない」ことによって問題が生じていることが多い。実は、第二次世界大戦中もこのことを原因とした失敗が少なくなかったのだ。

岡本薫『日本を滅ぼす教育論議