モードからの逃走

女性たちはブラジャーをするかどうか自分で選ぶという心地よさを味わってきたわけだが、今振り返って思うことは、この歴史的重大事が起こったのはわずか30年前なのだ。女性たちが不健康で不愉快な、体を締めつける服やブラジャー、ガードルやコルセットやガーターベルトなどを脱ぎ捨てたことは、女性の身体の健康とすばらしさを取り戻す歴史的でラディカルな宣言だった。

現代の若い女性たちは、自分の身体について、フェミニズム以前の女性たちがそうだったと同じように、自己嫌悪の固まりである。フェミニズム運動はたくさんのフェミニズム雑誌を生み出したが、これまでとは違う女性の美しさを見せてくれるフェミニズム的なファッション雑誌はこれまでなかった。性差別的なイメージを批判しながら、それとは違うイメージを提案しないなら、問題は真に解決したとはいえない。今あるものを批判するだけでは真の変化にはつながらないからだ。本当を言って、美のあり方を批判してきたフェミニストたちは、それでは健康的な選択とはどんなものかについて、徒に女性たちを混乱させてきたのだ。

しかし、美についての性差別的な基準を根本からなくす闘いをやめてしまえば、あるがままの自分と自分の身体を祝福でき、愛することができるようになったったフェミニズムのすばらしい成果をも失ってしまう危険をおかすことになる。多くの女性たちが次第に、女性美についての性差別的な基準を受け入れることの問題性と危険性に気づき始めているとはいえ、わたしたちは、こうした危険をなくすのに十分なことをしているとはいえない…つまり、新しい美のイメージを創ってはいないのだ。

実際には、美を否定するようなフェミニストはほとんどいないのだが、マスメディアは、それがフェミニズムだと宣伝している。フェミニズムが再び、美容やファッション産業に目を向け、30年前に始まった、いまだなしとげられていない美の革命に力を注がないかぎり、女も男も自由にはなれないだろう。そのときまで、わたしたちは自分自身のかけがえのない一部である自分の身体を愛するすべを知らないだろう。

ベル・フックス『フェミニズムはみんなのもの―情熱の政治学

ヌーブラ〜身体矯正下着をチョイスできる現在は、女性独自の価値観を付加してどーよ!勝負下着・見せブラ展開もしているので、矯正下着=家父長制抑圧の象徴としてしまうことは、「女性性発ファッション」という主体を軽視することになるので要注意。
ブラとガードルを脱ぎ捨てスカートをくさしていたフェミ最先端モードは、ファッションを素通りして、嗜好性を強めてエコ・フェミなどといっていたかとおもいきや、突然サイボーグ・フェミでボンデージ=フェテシズムに逆舵をとり、そのままクイアに突入してった。そりゃあ、んな趣味ない女性は混乱するわな。。。
フェミニスト・デザイナーとして、深町玲が「ReiWAOUEK?!」というファッションブランドを立ち上げたが、、、「西洋フェミ思考とアジア手わざの融合」という手垢まみれなイメージ以上のクリエイト*1は見えなかった記憶が。。。>http://www.harajukushinbun.jp/headline/198/index.html

田中美津は、近代日本のジェンダー秩序を「女は男に媚び、男は社会に媚びる」といったけど、何かを肯定することで間接的に自分達を肯定するというやり方の背後に見え隠れするマッチョ文化に、いつもいつも貴重な陣地を奪われて撤退することで自己を守ってきたのは伝統的には女性エリアだからなぁ。無論上野千鶴子はそんなやりくちは十二分に把握してそれを逆に戦略としてきた彼女の口からは、もうひとつの本質クリエイティヴのモードやアート牙城に対する有効打が出ないのだけどね。フェミは、むしろそういう他の本質を避けるようにしてフェミニズムアートとか「女子の〜」というジャンルに籠って、ひたすら下位構造を腐すことによって、下位構造自体の底上げを図ってきたみたいだ。でも、そんなジャンルの内輪でいくら評価されても、その外界社会で評価を受けないものは、果たして独立したジャンルなりモードなりアートになるうるのか?ということは、誠実な行為思索者ならば当然気が付くハズ。そんなにしてまで守りたい本質って、いったいどれくらいのものかって現代的問いをフェミはどう処理しようとしてるんだか、なんか又裂きになってるそれを昨今の「バックラッシュ」を利用して修復することに意識がいってるのかな?>『脱アイデンティティ』 
服飾という意図的表現はなによりも視る・視られる表象にあるのに、その肝心の視ることを軽視して立ち位置「自己フィクション」の意味にたよりすぎること(そこでプロレスをすることで自分達の領域を保守する虚構)が、視線のポリティクスを誘発してしまう。>id:hizzz:20050410#p6 偏在するフィクショナリティ騒動*2でみられるようにBL・腐女子(&百合)にとっての最大の不幸は、その「生態」=風俗現象ばかりとりざたされて、その「表現」活動=文化はいつも蚊帳の外だってこと。
「見た目にこだわる奴は中身が空っぽ」という本質主義だと、どうにも表象たる服装に対して時には望みは叶わないと非モテ的被害妄想・疎外的になってしまうものかもしれないが、それじゃあ服飾クリエイティヴは無視されたも同然じゃん。社会と共同体と自己身体との間に、自己の足し引きの余地=自己の見せ方・隠し方という思考=de-signはないのであろうかいな?ぷんすか。
服装もライフスタイルの一部と考えれば、衣装の意匠をチョイスしたりあだこだ評価することは、とどのつまり自分を評価することと相成る。ひたすら異質を主張したいんであれば、その場で非難されうるであろう格好を、女装して女性と愛し合いたいのであれば当の女性が愛する女装をすればよいことなので、それにはたゆまぬ精進(さまざまなグルーミング)が必要だってこと。TVで女装してるおネエMANSにしても、女性は自分好みとそうでないのとにシビアにチェックされている。>おっさん*3
男装・女装でのトランス失敗は、大抵は男物・女物のカッティングルールに自己身体を合わせようとせずに、サイズを合わせようとしてるから。脳内身体はともかく、装い=身体が判っていないことが可視化してるだけ。そこでケミカル&外科的テクで装う身体をさっさと拵えようとする者も出てくるが、それは全然服飾クリエイティヴぢゃあない。第一いったっきりで往来にはならんしね。
既製服(プレタポルテ)には、男性用男物と女性用女物の他に、ゲイ用男・女物がある。ゴルチエを筆頭に、マッチョだったらビッケンバーグか。ペニス付女物、タマ無男物という服は海外デザイナー物で多様にあるし、その日本ヴァージョンはもっとソフトなので、まずはそんなのを試したりして自分なりの着こなし術を磨いてから、日常にあだこだいってみてもよいであろう。ちなみにオサレ系とされる「裏原宿」は、どれもモードとしてはチンピラ以上にはなっていない現状なんで、ひとつ、間違えないよーに*4。なんでかというと、この人たちもインスタレーション性が欠落したままパターンで2次元的な服を拵えていたから。ちなみに、現在ギャルソンをのぼりつめた渡辺淳弥は、どーみても自覚的オタ服(インスタレーション性&絵画の欠損→2次元造形の徹底)だとおもうのだが、どーだろう。
しかし、BL等に籠る前に日本にはも一つ「ファンシー」という膨大かつ巨大な地場がある。この造形完成度は完全にモードである。したから、このあいだキティがディオールコレットの提携でパリコレに登場する。アタマの悪い日本のモード評論家達はついこのあいだ迄、ヴィトンにキティのチャームをつけてるギャル達を馬鹿にしていたのだけどね。「かわいい」もトコトン追及すれば凄味と化す。かわいいフラットの極地の強度がこれまでのモードのコンセプトをひっくり返す批判性を獲得するという、「いかにアートを舜殺するか」という今日日的仕様だからである。<いや実はひっくりかえされているのは、山本耀司三宅一生川久保玲スノッブ御三家なんだけどね。*5うひひ。<転んでもタダでは起きない性悪欧米
そういう凄味こそがモードとなって、またそれがコードとしてそれに合わない身体性を排除するのであろう。万人に似合う服なんざ装う役割を果たしていないのと同等である。大本尊たるモードへの挑戦も批判もない服装をいくらしてても、それは時代と共に流れるダケで「コード」としては確定しないであろう。

*1:その手は、ミラノなどの各西洋メゾンのほうがはるかに上をいっている

*2:http://tanshin.cocolog-nifty.com/tanshin/2008/05/post_df4f.html

*3:経験上でいうと、プロ仕事してるゲイはすべからく、漢臭職人かたぎ。半端なリーマンこそが女の腐った臭。

*4:ナンバーナインとかアンダーカバーといった、頭角を現してからの「次」がなくて資産くいつぶして息切れしてる例。もっとヤラシクいえば、キャズムを越える才能を追加出来てない状態。ま、今のサブカル全体がそうなんだけど。

*5:社会に於ける「男女の階級性」だの「性の非対称」だのをひたすら問題にしてきたフェミニズムが、この御三家を野放し=批評を避けて通ったヘタレっぷりたるや(なのにダイアン・アーバスのような小娘には教育的指導したがり僻id:hizzz:20040220#p3)、あんたたちこそ「オリエンタリズム!」