ロジックの装着

北京五輪を控えて盛り上がる?ハイテク水着レーザーレーサーをめぐる騒動。
着るまでに3人がかりで30分もかかるという強力な締め付けによって、動かないように体を抑えて形を流線形状にしつつ浮力姿勢を保ち、水の圧力抵抗を減らすといった機能であり、抵抗が小さくなったことで1ストロークでの伸びが飛躍する。世界新を出した北島康介は、通常のストローク数より1つ減っていたという。
髪の毛やバストや性器といった張り出した部分が、運動する身体にとって邪魔になるというのは、なにも水泳だけではないのは、体育などの経験則から納得できることだし、ベルトやサポーター・テーピングでの締め付けが体を楽にしてくれる場合などを想像すれば、むしろ今まで考えてこれらなかったのがおかしい程だ。無論そこには、ギリシャ以来の身体スポーツ観というのが優先していたのであろうことは容易に想像がつく。一時の競泳用水着トレンドは小面積ハイレグだったもんな。精神論を唱える論者はこの水着騒動には「裸で泳げ!」と大抵いう。「モラル」の点でそうもいかないとなったとき、逆に「衣装」の面から身体を機能的に再構成すれば、こうした機能的身体=矯正ボディスーツに具現化された。ロジックとしての衣装に「操られる身体」としての世界新という証拠結果をさまざまと見せつけられた驚き(道具にねじ伏せられる精神性)が、スポーツ業界を超えたこの騒動の根幹なのだろう。
ともあれ、身体の延長として道具を使うことが他の動物と違う文明文化としてきた人間様ではあるからこそ、その逆として身体をとことんロジックとしてつきつめる運動がスポーツ文化として発達してきた「フィジカル」という建前が、かなり無理ムリなのは、確か。>どこまでドーピングか問題等

身体を特定のカノンにしたがって造形しようという欲求は、なぜ裸体を忌避するのかという羞恥心の問題と分かちがたく結びついていた。両者の起源を探ると、文明社会の原理が、まわりを取り巻いていた自然とのあいだに区別を設けることで成り立っていたことが分かってくる。その根底には、人間の自然にたいする恐怖心が横たわっていたといえる。
言い方を換えれば、文明化とは、自然との境界を明確にする行為なのである。すなわち、未知なるものを既知に変え、外部にあったものを手なずけ自己の領域に招き入れることで、恐怖の源を取り除くことであった。しかも困ったことに、自然はかならずしも人間存在の外側に存在しているものではなかった。自然は人間存在の内側そのものにも陣取っていた、というか人間存在の容器そのものが自然の領域に属していたからである。いうまでもなく人間の身体は、生身のままでは自然の領域に属している。古代人にとってこれば何とも厄介な問題であったにちがいない。

北山晴一衣服は肉体になにを与えたか―現代モードの社会学