身体のモンタージュとしてのプロポーション

上記の井上八千代は、京舞井上流とはそもそも男舞でありそれが芸妓座敷舞として踊られる捩れを含んでるとはいえ、女舞地唄→男舞→女舞という修行の性バランスを説く*1ロラン・バルトは『表徴の帝国』で、異形としての女形について書いているが、その表現される女の形は自分が意識している西欧では到底不可能な存在であるという。女形という型は、女性を演じるのでも複写するのでも剽窃するのでもなく、再現ということからおよそ切り離された女性なるものの純粋な記号そのものであると。演劇的考えからすると人間としての女性といったロジックを西欧ではとり女性的個性になろうとするが、東洋的俳優は女性のしるしを組み合わせること以外なにものをも求めないという。データベース型消費ってことかな。
となれば、成程モードは、その時の出来合いでもどーでもいい。異装や変装しようとすると、たいへんな非日常が現出することを、学芸会=学園祭というのだろう。しかし「たいへん」である「主体はそもそも怪しい」んだしね。主体は不明、身体はフェイク、そんなお祭りになにが足りないのか?

ほんとうに幻想と創造が一体化するところがあるとするならば、それはむしろ「知りすぎた」現実、もはや何かであるかわかってしまったものを、もう一度想像力のなかで構築し直す素朴な感情―たとえば勇気、といったものである。
つまり、性的幸福もまた、性にかんする情報を省略して、拡散を防ぎ一点に集中するのではなく、無限に部分化し、拡散してゆくなかで「数の増大による」エクスタシーを得られれば、その方がはるかに生の充足につながってゆくものなのである。私はワイセツ感と幸福の関係について想うときに、両者のなかに共通してある「無目的性」をたのしまずにはいられない。

寺山修司幸福論

異装や変装することそのものが、赤信号みんなで渡れば怖くない的なことをするのが勇気なのではない。鷲田清一モードの迷宮』は、ロラン・バルトが定義したモードの現象「みずからせっかく豪奢につくり上げた意味を裏切ることを唯一の目的とする意味体系」を用いて、こうした表装に翻弄される現象を、<私>の自己解釈と自己存在とのあいだにずれがあるかぎり、言い換えれば<私>が自らの皮膚を可視化・可感的な存在をもてあましているかぎり、要するに<私>の近さと遠さに不均衡(ディスプロポーション)があるかぎり、<私>にとって廃棄不可能な現象なのであるという。そうして<私>という主体はいつも内外双方共に、揺らいでいる。ま、かくして、、、

美のために何事でも忍ぶことのできた国民は、同時に観念のためには、何事も忍ばない国民であった。殉教も、宗教戦争もおこりようがない。超越的な神がかんがえられなかったように、すべての価値観でさえも容易に生活を離れようとしなかった。価値の意識はつねに日常生活の直接の経験から生みだされたのであり、本来感覚的な美的価値でさえも容易に生活を離れようとはしなかったのである。屏風、扇子、巻物、掛け軸…日本画の伝統的な枠は、西洋画の抽象的な額縁ではなかった。

加藤周一加藤周一著作集〈7〉近代日本の文明史的位置

と、ゆーわけで、拘るワタクシなのであった。
何気につづいていたものが、つづく。。。

*1:ちなみに、日本に於ける異性装は、成人になるための通過儀礼の際の女装や、非日常的ハレ空間を演出する為など、古代から様々な形態で行われてきたが、男性の異装=女性化ということではない。服飾史の村田仁代は、それを男でも女でもない「第三の性」を現出させるための行為と指摘してる。