セクシュアリティの視覚

<私>が<私>の肉体を所有するのは、諸制度の名においてすぎず、<私>のうちにあるそれら諸制度の言語は監視者にすぎないのだ。制度の言語は、その中に<私がある>ところのこの身体が、<私のもの>であることを<私>に教えた。<私>が犯しうる最大の罪とは、<他者>から<その>肉体を奪うことであるよりも、<私の>肉体に、言語によって制度化されたこの<私自身>との連帯性を失わせることなのだ。
自己固有の肉体とは別の条件をそなえた肉体をもつという表象は、明らかに倒錯の特有のものである。倒錯者は他人の肉体の他者性を感じるとはいえ、彼がなによりもいたましく感じとるものは、彼自身のものとしての他者の肉体なのである。そして、規範的、制度的には彼のものである肉体を現実には彼自身と無縁のものとして、つまり彼を定義するあの非従属の機能には無縁のものとして感ずるのだ。自分自身の暴力が他者に及ぼす効果を理解できるように、彼はあらかじめ他人のうちに住まっているのだ。他者の肉体の諸反射作用のうちに、彼はつぎのような他性を確認する。すなわち、<自己>の内部における、他的な力の出現である。彼は内部にいると同時に外部にいるのだ。

クロソウスキーわが隣人サド

明治初年、とある場所で公開された女性裸体が描かれた西洋絵画を見た人々が驚いている様を見た西欧人は、驚いた。なぜなら、そのすぐ近くの公衆浴場では、裸体の男女が何事もなく混浴してるからだった。少なくとも明治期以前の日本では、裸それ自体は性的欲望のコードに値しなかったのである。
では、ロラン・バルトいうところの「再現ということからおよそ切り離された女性なるものの純粋な「しるし」」とは、どこにあるのであろうか。舞という芸能からもう少し掘ってみる。
歌ことばの研究者・片岡智子は、女装と演ずる身体について「性格を基とする内面からの役作りはしない。あくまでも扮装を基本とする」ために、演者は、男女を問わずその中味を「空っぽにするしかない」という。稽古によって「男でもない女でもない私を去った『演ずる身体』を獲得する」ことが大切なわけで、「そのような身体あったればこそ、女装も生きて来る」と指摘する。
以前書いた京舞井上流は「男舞をする芸妓」という両性具有性を包摂しているのだがid:hizzz:20080702#p2、脇田晴子『女性芸能の源流―傀儡子・曲舞・白拍子』によると、女性芸能や男性が演じる猿楽能の蔓物(女物)には両性具有性があるという。さらに男装・女装という区分けものが、そもそも単に男女差のない公式扮装であったものが、「神事が男性独占になるに従って、男装と見なされることになった」にすぎず、「男装という認識そのものが、時代的経過のなかでの男性独占の歴史でもある」と述べる*1。能を含めて女性芸能は、幕藩体制が成立した江戸初期、本格的規制が出されて公の場から徐々に駆逐され、『女訓書』等の教書が出だした寛永年間に女芸一切が禁じられた。>教育と学問のモラロジーid:hizzz:20080309

*1:日本で最初に仏教に得度したのも、善信尼ら女性3名。