画家という社会的個人存在方法

西洋の画法は理を究めたれば、之を望み見る者、容易に見るべからず。望視るの法あり。故にや彼国皆額となして掛物とす。仮に望むといへど、画を正面に立置きて、画中に天地の界あり。是望む処の中心とし、則ち五六尺を去りて看るべし。遠近前後を能分ちて、真を失なはず。

司馬江漢『西洋画談』

そうした珍しいものへの博物的好奇心から「科学のまなざし」を会得し客観性を獲得すると同時に、江漢の「望視るの法」視る・視られるが周囲世界からはっきり意識区分された関係性からくるその反対の概念・主観=近代的主体構築という近代王道に向かおうと自分のアタマで考え生涯実践苦闘しつづけたのが、高橋由一(1828〜1894)なんである。>id:hizzz:20050222
金刀比羅宮高橋由一
http://www.konpira.or.jp/museum/yuichi/yuichi.html
佐野藩士の傍ら狩野派に入門し手習を続けていた由一は、幕末に視た西欧石版画に強烈な衝撃を受けて以降西洋画をなんとしてもモノにせんと探究を開始した。んが、いかんせん、その技法はおろか道具すら体系化して日本には入っていなかった。こうして由一は、ただ描く技法だけを作画として追及したのではなく、日本家屋に合った西洋画形態(『鮭』のような縦長の「柱絵」、画を正面に立置きて正確に畳座で対峙せんとした「衝立絵画」、「屏風絵画」「掛け軸絵画」「画帳」)であるとか、迫真的写実技法を活用した記録保存(日本各地の名所明晰風景画、神話絵画)だとか、画塾での画材・技法研究と後進指導(「明治美術会」「天絵楼」)や、絵画雑誌の発行(「臥遊席珍」)、更には展覧会館構想(「螺旋展画閣」)など次々と企画を立てその実践に着手・奔走し続けた。絵を描いて活きていく個人「画家」としての社会的在り方=スタイルの創造、作画・画家の社会的認知・活用・定着をも含んだ実践事業に乗り出したのである。
武士階級であった由一は、大政奉還後の自己と社会=明治政府に対して待ったなしの身の振り方を考えねばならない立場ではあったが、こうした観察態度を通した武士的開明性による江戸的なものの否定、江戸的発想による欧化主義の受容に依る江戸的なものの否定という近代的ねじれが、その画業に現れてくる。
  
モデルとなった新吉原・稲本楼の花魁小稲は従来の「美人画」右側*1とはあまりにも違うその出来上がりにショックで泣きくれたという『花魁』左側。が、理想郷の「美人画」という型に嵌ろうとする女装意図とそこからはみ出す生身の小稲の「ゆるみ」「くずれ」という落差に対してこそエロスを感じているベタなそれこそを描写した視感リアリズム、もぉ、このこのぉ〜、由一ったら、ほんとに度スケベヲヤヂなんだぁ〜と、ワタクシ視るのである*2。このような『花魁』にみられる江戸にも西洋画にもない違和・異質=正解を模索する葛藤からくるオリジナルな創造力について、高階秀爾日本近代美術史論』は「西欧の油絵という技法の奥にある感受性とは明らかに異質の感受性がそこにあり、しかもその異質の感受性が、本来それにふさわしい乗り物ではない油絵という技法に乗って見る者に伝えられて来るというそのことに由来する」と指摘している。その後、「工部美術学校」の御雇イタリア人画家のフォンタネージ指導によって正当な西洋伝統絵画表現を身につけた*3由一のあくなき表現意欲からくるほとばしる魅力は、油彩技術が高まる後期には逆に凡庸なものとなっていく皮肉な結果をもたらす。
明治20年末に「明治美術会(1988〜1901)」殖産興業政策・工部省付属「工部美術学校(1876〜1883)」は、おフランス帰りのスーパースター黒田清輝を頂点とする「白馬会(1896年設立)」文部省付属「東京美術学校(1887年設立、洋画科設立1896年)」に政権交代し、以降、由一と共に山本芳翠、五姓田義松、浅井忠、小山正太郎らなど洋画黎明期の作風は、ダサくて暗い「旧派」「脂派」とされて「日本美術」概念世界からは断絶忘却されることとなる。
「不安の時期における根本問題のひとつは、如何にして客観的必然性を主体化し得るかということ」を考え続けた三木清は、「時代が政治色を帯びると哲学が芸術に逃げ込む」と指摘した。

法律のみではなく、あらゆる制度的なものはノモスの意味を有している。芸術の如きですら制度と見られることができる。例えば芸術における古典とは何であるか。古典とは我々の趣味にとって基準となり、我々の制作にとって模範となるものである。言い換えると、それはノモス的なものである。かかるものとして古典は明らかに価値高き作品でなければならぬ。しかもそれの有する価値が伝統的に定まっているということが古典の一つの特徴である。古典が古典といわれる価値は我々が一々批評した上で初めて定めたものではない。却って我々は古典に據って我々の趣味を教育し、その基準を定めるのである。

三木清『想像力の理論』

かくして、近代主体獲得の実践は始まったとおもったら、美術として国家権力制度化された国粋主義の台頭と共にあっけなく終ってしまったのである。とほほ。

これ以後、国内美術ギョーカイは忘却の呪縛に捉われるさまは、また今度。。

*1:http://homepage2.nifty.com/koina/

*2:「視る・視られる」は、「視せた・視られた」という解釈の自他落差でもある。>期待権

*3:以前に横浜でイギリス人ワーグマンに絵画指導を仰いではいるが、彼は油絵画家ではなくポンチ絵ジャーナリストであった。