美術というジャンル

日本には音楽・書画・工芸・彫刻等多々あれど長らくそれらを統一した名称で括ろうとする思考はなかった。「美術」という名称の始まりは、1973年ウイーン万博参加に際してドイツ語につけられた完成訳語だというのが史実。前回書いたとおり、日本の美術(≒視覚芸術)となるものは「見世物」から出発しているのである。「芸術」という名称はそれ以前からあったが、技術や学問を意味する用途(書画・彫刻・馬術・弓術・相撲・茶の湯・大工左官の技巧・料理・陶芸などの諸芸の技術=芸術)で用いられており、今日的意図で称されるのは明治30年代の終わり頃と北澤憲昭はいう。上野の東京国立「博物館」が、何故「美術館」名称でないのかということのひとつに、この起点が関係している。*1
東京国立博物館国立西洋美術館、「国立」と冠のついた2つの美術館があるようにまず「西洋」と日本を含むその他という区分けがされてる。国立博物館は、「日本」と「東洋」の文化財として、本館・東洋館・法隆寺宝物館・表慶館・平成館と別れている。それがどーしたと言われるかもしれないが、よくよく考えてみてみれば、これほど統一してない名称もありゃしない。
まあ、国立博物館は「(大日本)帝国博物館」のなごりであるから「東洋美術」というジャンルを包摂していることは理解できる。が、しかし、なんで「東洋」と「日本」が別れているのだ?「西洋美術」のように、5〜6世紀朝鮮、7〜10世紀唐・宋、14〜16世紀日本とかの混合文化史とならないのか。しかし、韓国でもこれは同様で、韓国と他のアジアと西洋に分かれている。それに対して中国と台湾は、それぞれが「故宮博物館」を頂点とした統一中華思想圏と西洋に分かれている。このように、東アジアには西洋のようにお互いに文化共有するアイデンティティを持ち得ていないことを、如実に示している。

任那は日本と関係が深かったこともあり、この任那と友好関係にあった百済が最も多く日本と接触し、日本に最も熱心に仏教や仏教文化を入れた国が即ち百済であったことを思えば、日本の仏教美術の始源期を探究するに、朝鮮としては百済、中国としては百済と最も接触多き南朝仏教文化でなければならないことは、理の当然である。
日本の仏教彫刻の源流を尋ねるに、朝鮮ならば百済、中国ならば南北朝南朝、がこれほど重要なる意義を持つ筈でありながら、美術史の大いに発達している今日、なぜこの問題が専門家によって、もっと真剣に取り上げられないのであろうか。

矢代幸雄日本美術の再検討

日本はむしろ「脱亜」=中華文明圏を超越する為に「西洋」を取り込んだのだから、その上でいう「アジアはひとつ」は、このうえなく政治的アピールに他ならないと同時に、このうえなく近代西洋普遍思想的発想であるともいえよう。

*1:縄文土器は、長らく考古学の学術資料品であって、戦後の岡本太郎の人類学的「発見」がなければ、美術品とはみなされなかった。