都合悪いものは全部スルー出来得る便利な方便

id:hizzz:20080401#p1で書いたが、学問・文化輸入も典籍・文語・中心である。その輸入ものを模造再現する際に誤解&曲解釈をする、解釈・文学主義&歴史修正主義にある。その過程で不都合な元のアイデンティティは消去される。脱ロゴス化は無意味化のためのたったひとつの形式として政治的意味でアートの磁場を形成する。それを現代的な言い方でいえば「脱構築」というのだろうが。とっかえひっかえ脱構築されたのは、我関しないお手本元のアイデンティティだけで、日本人の立ち位置は終始無風地帯だったのである。超越思考の背後には、必ずなにかの隠蔽が密んでいる。

始源はいかなる場合も虚構である。そこには常に始源の前に始原があるかの如き騙りがひそんでいる。起源が隠されようとする。むしろ始源が起源を虚像のように浮かばせてしまうのだ。そこで誘惑がはじまる。これがイセにしかけられている罠であり、ナショナリズムとして、『日本的なもの』、天皇的なものに絶えず回収されていく絶妙な文化的機構として保持されているものなのである。

磯崎新建築における「日本的なもの」

文化人類学を一方では面白いものにしようと努力して、一方では壊そうというふうに努力してきたんですが、私の壊そうという努力は、敗北しつつあるという感じがあるので、美術史学の方へ「敗者」として逃げ込んでるという傾向があります。」と山口昌男は『文化と両義性』を語る。
近代美術のこのあまりにもうっとうしいねじれは、モダニズム成熟そっちのけの大正時代のアバンギャルド運動をへて反芸術という現代アート「運動」に分断された。

「反芸術」の「反」(そむく)が、つまり芸術の反乱が、結局グループ集団、党派性の囲いの中で沸騰し、「反」(かえる)、つまり芸術の復帰が、結局個の営為の中に結実していったということであります。なんともはや、やるせないと言いますか、残念と言いますか、やっぱりと言いますか、芸術は冷たいと言いますか、芸術の魔性の歴史を噛みしめるなんともつらーい歴史の教えではないでしょうか。こういうわかりきった芸術の生成を百も承知で、重い芸術を思いっきり蹴っ飛ばしてみたら、飛んで行ったのは自分の足の脛(芸術の伝統と技術)でありまして、こういう馬鹿馬鹿しさを喜劇にくるんだ位相こそ、「反芸術」がいつまでも、あの芸術のなつかしい自由に包まれた反抗の時代の郷愁を浮び上らせている所以ではなかろうかと思うのであります。
ネオ・ダダ芸術、ガラクタ芸術、アクション芸術、土俗芸術、観念芸術、消滅芸術、暗黒芸術、ハプニング芸術などと、巷で呼ばれたものがそれでありまして、もう少しわかりやすく分類しますと、廃品回収芸術、廃棄物再生芸術、梱包芸術、ニセ札芸術、不快音芸術、腐敗悪臭芸術、ポルノ芸術、危害芸術、観光芸術、大道芸芸術などとなりましょう。さらに、それらを社会的関連で申しますと、公衆衛生法違反芸術、食品衛生管理法違反芸術、ワイセツ物陳列違反芸術、騒音防止条令違反芸術、道路交通法違反芸術、建築基準法違反芸術、表現の自由裁判有罪判決芸術というふうになります。

菊畑茂久馬『反芸術綺談

菊畑茂久馬*1のこのぼやきは、言及している「表現の自由裁判有罪判決芸術」=「ニセ札芸術」、赤瀬川原平「千円札」作品が偽札製造として通貨及証券模造取締法違反に問われ有罪となった事件に際する美術・文化系証人たちの大弁護大会が、赤瀬川のそれはニセ札づくりではなく芸術行為で芸術=表現の自由を大前提にして行われたことにより、皮肉にも芸術が立脚しないと存在できえない「反芸術」*2というコンセプチャルアートの根本的弱点が、表面では威勢よく国権乱用をアジした当の芸術家達にはいやおうなく突きつけられたことにある。

そんな牧歌的60年代の読売アンデパダン・日宣美闘争*3や70年代美共闘*4の喧噪後の70年代後半の挫折感は、ナンセンスとしてパロディとなったり癒しとしてオカルトとなったりしたのである。それが80年前後のシニシズムアイロニーの「ヘタうま」戯れ=シャレに引き継がれたのである。だが、このような「ヘタうま」来歴をまったく無視しシャレを勘違いしてベタに手法としてしまったのが、「新人類」以下の「アーティスト/クリエイター指向」な若者、アート難民達である。
現状では、従来伝統芸能日本画壇、近代洋画壇(印象派を中心とした公募団体)、なんでも在りな現代アートセクトに、それぞれ断絶した状態で棲み分けがなされている。
また、昨今のサブカル連中はそんなハイアート人達の営みそのものは、なかったことのように視覚の悦楽を求め尽す「萌え」ダケを思想歴史化しようとする。しかしそういいながら、既存権威制度のお声がかかるとホイホイと馳せ参じつつ、政府や企業は文化に冷たいという明治以来の愚痴をいってはばからないというのは、国民国家&国民経済にべったりの発想から一歩も抜け出していないといえよう。>id:hizzz:20080521#p4
とかく美学美術は歴史学との差を示そうとするばかりに、「美」的イメージばかりがクローズアップされすぎた結果、研究対象はテクスト読解という内部にこもりがちとなり、それを現実に拙速に結びつけようとするときに政治=美学みたいなことを言い出す。そうして日常を超えたトコにあり現実を支配統制したい抽象学問のさらに上位の超論理という仕組み、世の中の仕組みを支配規定する言説という「仮説ごっこ」に夢中。しかし実は、自分達が抜け出したとした世の中の制度は全部こうして残っているのだけど。そんな目先の他者業績の分け前に飛びついて立ち位置保持するだけでなしに、自前でやることは沢山あるのである。>日本という「悪い場所」、現代という「閉じられた円環」、椹木野衣日本・現代・美術
id:hizzz:20080401で、「御真影」化した天皇像と憲法が近代国家の表象となったとしたが、その天皇=国家という神殿を支えたのが国家=国民という下部構造であり、その表象制度が「日本美術」という内なる概念であった。したからこそ、天皇=国家という上部構造が外れた戦後にも無風で引き継がれることとなったんだろう。
近代国家の懐疑から戦後民主主義が始まったのならば、当然近代がこしらえてきた枠組み全般、国民国家という枠組みを含めた再検討があってしかるべきであるハズなのにもかかわらず、その通ってきたものをひたすら「土着」と言い捨て忘却することで、知らぬぞんせぬ自分はポストモダンだブランニューだニューウエイブだサードチルドレンだと言い張っても、そんなやり方こそ近代以降の美術=政治が再生産し続けてきたことなのではないだろうか。現代を標榜することで過去を断絶し、「芸術」というこのうえもなく手前自由で美しい抽象概念をアジールとすることで延命・継続してきたことは、なにも巷にあふれる「アーチィスト症候群」さんたちばかりではないハズである。アカデミズムすら表現主義の場となりはてている状態、それははたして学問といえるのであろうか?*5会田誠『美術に限っていえば、浅田彰は下らないものを誉めそやし、大切なものを貶め、日本の美術界をさんざん停滞させた責任を、いつ、どのようなかたちで取るのだろうか。』
現代アートの立場から、このような現状に対して批判的な川俣正は、次のようにいう。

自分の行っている仕事を他人に紹介する時、なかなかうまく説明できないもどかしさといつも感じる。「これは現代美術です」などど言って、他の美術との住み分けをはっきりさせ、現代の美術ということで何だか訳のわからない作品を、わからないということが、そのまま現代美術のステイタスになってしまうことの凡庸さに、自分は付き合いきれないところがあるし、コンテンポラリー・アートなどという洒落た言葉の中にある、何か上滑りする気持ち悪さの中にいたいとも思わない。アートフルな人たちの、気の利いた生活のための教養主義的アートの類からどのくらい距離を持てるかということ。無自覚な文化教養主義の飾りとしてしかアートが存在しない、アートフルな世界に対する苛立ちなのかもしれない。
つねにその場で起こる実際の物事を通してでしか応えられない事柄の中に、アートの、あるいはそうでないものの新たな関係を組み立てることができるヒントがあるように思う。結論のでない問題のまわりをいくつも迂回しながら考え続ける行為性そのものから、時代的ムードや社会現象だけで語る以上のリアリティと、新たな考え方の方法論が見えてくるような気がする。

川俣正アートレス―マイノリティとしての現代美術 (ArtEdge)

*1:1957〜62年の前衛美術運動「九州派」のひとり。九州を拠点に機関紙を発行し、東京のアンデパンダン等の前衛美術展・イベンド参加。

*2:東野芳明命名。1960年代前半、読売アンデパンダン展を中心に発表された既成美術概念では捉えられない作品営為に対する名称。当時の文芸・演劇流行「アンチロマン」「アンチテアトル」の類似概念。九州派、ネオ・ダダイスム・オルガナイザーズ、ハイレットセンターなどの活動を指す。

*3:日本宣伝美術家協会の「日宣美賞」選定権威にまつわる権力闘争、日宣美は1971年解散 社団)日本グラフィックデザイナー協会(JAGDA)の前身

*4:「反芸術」派と区別して「非芸術」とも称される。モノ派やコンセプチャルアート

*5:東京大学東京芸術大学京都大学と私大サブカル文系美術学科のそれぞれの美学・美術史学・文芸批評の相克関係に加えて参入してきた現代を超越せんとする文化左翼系批評の、4つどもえのパワー・ポリティックスの出ては消える立ち位置言説アジにかまけているうざったさといったら、、、ちょっと、もう少しどーにかならんもんかのう。