モダンの根幹=アイデンティティを削除した表現主義

文化庁下の文化財研究所には、帝国美術院属美術研究所以来の「黒田記念館」があり、いまだに黒田清輝は日本近代美術史の中では突出した地位を物理的にも占めている。子爵の養子という特権的身分の清輝は、法律を学ぶべく渡仏したが、そこで画業に目覚め転向し、外光派ラファエル・コランの手ほどきを受けて帰国したのだった。洋画の頂点に清輝が立つことが出来た背景には、高橋由一らによる洋画認知活動により視覚概念の効用に官(天心&フェノロサ)が大々的乗り出した時期に合致して、こしらえた「日本画」と対となり都合よく新しい洋画様式を布教するにふさわしい地位の人物であった為である。それと、芸術からのキリスト教削除という日本近代以降のアイデンティティ問題に関係する。
近代日本洋画の巨匠や名作には、キリストやマリアを主題に描いたものはほとんどない。日本のどこ探してもないキリスト教を問題なく回避するには、キリスト教以後の印象派はうってつけ。現在でもそうだが、日本での西洋美術の受容は、一番人気が印象派である。脱宗教・脱アカデミー・脱歴史な印象派は、脱西洋の方法論してジャポニズムを取り入れていたことで、キリスト教や歴史やアカデミズムを踏まえなくともイキナリ非西洋な日本人がその上に葛藤なく乗っかれる様式だったのである。また、その日常生活や都市・自然風景という画題も、従来の自分たちの浮世絵等でなじみやすいものだったといえよう。
西欧の「神」の役割は、日本では「美」。そのような美意識が生活原理として浸透している日本では、支配-非支配の権力関係の正当性が「美意識」の位相において現れやすいと、橋川文三日本浪曼派批判序説・美の論理と政治の論理』はいう。だからこその政治=美学、「美しい国、日本」なのである。>id:hizzz:20070126#p1
油絵を排撃し日本伝統的絵画を称揚するフェノロサと西洋最新流行技法たる印象派移植した表現主義な新派によってひきおこされたものは、単に新旧の権力交代といったものではなかった。各地で眠っていた骨董品の中からより抜いた市民社会の普遍美価値が政治と結びついて国粋主義と化したイデオローグは、自分のアタマで考え工夫しスタイルをつくっていくという美術の根幹に拘る重要な営為=アイデンティティに、致命的打撃を与えたのである。
自前理論構築よりも、西欧発信の最新イメージだけを自由解釈してコピーして纏めれば良し的姿勢、新機軸を次々求めて消費するそれは今もそこここで見かけられる。