日本画の誕生

天心・フェノロサ絵画改良運動は、明治憲法体制へ向けての制度整備と共に、絵画における四民平等・中央集権の啓蒙として推進された。究極的な西欧優位性を保持しつつ西洋にとっての他者である日本を想定しつつ、その日本の伝統を賞賛し、その一方で近代日本文化(旧派)を衰退の極みとして批判し排除するオリエンタリズムの結果として、「日本画」というジャンルが出来る。

われわれはよく京都や奈良の名刹を訪ねて、その寺の宝物と云われる掛軸が、奥深い大書院の床の間にかかっているのを見せられるが、そう云う床の間は大概昼も薄暗いので、図柄などは見分けられない、唯案内人の説明を聞きながら消えかかった墨色のあとを辿って多分立派な絵なのであろうと想像するばかりであるが、しかしそのぼやけた古画と暗い床の間との取り合わせが如何にもしっくりしていて、図柄の不鮮明などは聊かも問題でないばかりか、却ってこのくらいな不鮮明さがちょうど適しているようにさえ感じる。つまり此の場合、その絵は覚束ない弱い光りを受け留めるための一つの奥ゆかしい「画」に過ぎないのであって、全く砂壁と同じ作用をしかしていないのである。

谷崎潤一郎陰翳礼讃

そのような所で存在していたものを、屏風や掛け軸や画帖から見世物としての博物館・展覧会に合わせて引離し、鼓常良『日本芸術様式の研究』にいう現実秩序と異なる絵画秩序の自律性を確保する額縁に収められたとき、「日本画」が誕生した。日本画は、空間写実と平面装飾との兼ね合いを主な要因とするが、これらの矛盾を個々の制作内での課題とし続けることなく、大正期モダニズムの表現実験をしたところで、昭和初期には装飾平面性に傾斜した様式的解決=新古典主義に落ち着いてしまう。また博物館・展覧会に映えるような作画は、巨大化・顔料の粗大化を招き、障壁画をベースとした洋画風の厚塗り画面が出てくる。
江戸時代の身分秩序によって分派していた書画(室町水墨画、やまと絵、光琳派、桃山障壁画)は、明治40年代には「日本画」として統合し、書*1や人文画、工芸*2及び工芸的技法(蒔絵、染絵、織絵、縫絵、焼絵等)の排除が完了する。この視点の日本近代美術史は、基本的には1990年代迄続く。美術の見直しが始まったのは他の学問領域や世界的動向と同一で、東西冷戦構造の崩壊と、それによる新たな世界像の模索、そのための来し方としての近現代の検証という問題意識によって、ようやっと近代日本をイデオロギーでなく等分にみようとする資料が掘り起こされてきた為である。>id:hizzz:20080124
「美術」という文化文明価値自体が近代西洋からもたらされたものであるが故に、日本の美術価値は始終その他者価値基準と自己嗜好の間で揺らぐこととなる。例えば近代以前の美術は公家・武家といった為政者美術=仏教美術であるが、無論西洋は仏教そのものに価値を置かず、ジャポニズムで高評価されたのは浮世絵や陶器・工芸といった庶民芸術といった始末。さらに「工芸」というジャンルは装飾として、絵画・彫刻・建築を第一義とする西洋美術価値基準では格下扱い。
てな訳で、西洋が手本であり続ける戦後も日本美術史は、一貫した価値基準がもてずに戦後民主主義で読み解いてもイメージ先行となり、文部省&新派系 東京美術学校&官展(文部省美術展覧会:文展、帝国美術院美術展覧会:帝展、〜現・日展)、白馬会、日本美術院の作品を主流とし、国家主義を軸につくられた近代日本美術(宮内省系の旧派・明治美術会、日本美術協会 戦争美術・植民地美術、農商務省系)を忘却することに普請したのであった。とほほ。。。

*1:1950年代前後には、日本芸術院はじめ各公募団体でも美術復権されているににもかかわらず、学校では「国語」科目内履修習字となっている

*2:戦後、美術界復帰