小室関連楽曲の配信・放送自粛と、善良なる視聴者

音楽芸能タレントを「アーティスト」と言い出したのは80年代が始めだが、90年代になってそれは、もはや当たり前のようになる。そんな時代に芸能タレントを格上のアーティストに仕立てて売り出すプロデューサーとして脚光を浴びたのが小室哲哉その人だ。彼が音楽著作権詐欺容疑で逮捕されたことを受け、レコード会社は直近発売予定だったグローブの新譜は発売中止、小室がミュージャンとしてメンバーだった楽曲はネット配信自粛。TV・ラジオ局は小室メンバーだった楽曲はリクエストがあっても放送自粛という。この楽曲に対する「くさいものにはとりあえず蓋」「右にならえ」自粛措置は、大変おかしい。
上で書いた通り、作品の自律性をもってしてアートとする表現原則からすれば、作家と作品(楽曲)は、別である。また、楽曲に於けるプロデューサーとミュージシャンの関係も、双方の固有性をベースに適切な役割マネジメントの元に成立しているものだ。仮にもし、作家と作品は一体のものであるとするのならば、小室ファミリーと称される人々、彼のプロデューサーを受けた楽曲全てに累が及ぶことにならなければスジが通らない。小室ファミリー自体はジャンルとしては往年の勢いを失ったとはいえ、まだまだ一線で活躍しているタレントは幾人もいる。そういう人々の過去プロフィールからも「小室ブランド」を末梢しえるのか。それは無理である。
例えばキース・リチャーズが麻薬所持で有罪判決を受けた時、ローリング・ストーンズの楽曲は、どこかの国で放送・販売が自粛されたのか?結局、レコード会社・TV・ラジオ局のしていることは、文化の創造伝達でもなんでもなく、ただのエンタメ業の営業でしかない。その営業見地からすると、小室メンバー楽曲ハズシという「小室ブランド」の線引きが、不正を許さない「良識」ある視聴者様の批判をなんとか曖昧にやりすごす手段となったのであろう。かってかの者達を「アーティスト」と華々しく持ち上げたそのドコにも、アートはない。いま彼らの眼中にあるのは、市場からの「小室ブランド」とその商品の撤収ってことである。報道される内容も、100億だの5000万だの、金・金・金にまつわるハナシばかりである。この事態に、「アーティスト」の出現と共に独立した文化価値を標榜せんと嵩上げしたカルスタ「J-POP批評」とやらは、どう対応するのであろうか。やっぱり、過去の人扱いってことで終了か。
ワタクシは、小室哲哉自身にもその楽曲にも小室ファミリーというエンタメ1時代に対しても、どれ一つ思い入れはない。通常、一般的な制作現場では、プロデューサーの役割は統括者として特に資金調達・管理と対外交渉を中心にする者である。その下のディレクターは、制作内容・過程の交通整理=監督をする。その下にミュージシャンなどのパーツ制作実行者=クリエイターがいる。小さいプロジェクトでは兼任されている場合もあるが、なんでそんなに役割分業化するのかといえば、ややもすると制作という実行パッションが突っ走りがちな場所では、尚更に冷徹な第3の目によるコントロールが、統合的見地として必要になるからである。能力的には小室は、非常に優秀なクリエイティヴ・プロデュースを兼ねたディレクターであって、本来、総合マネジメントを仕切り続けるだけの情勢判断力はなかったのであろう。今マイナスでも一発当てればすぐ盛り返せるという過去成功体験にとらわれてるバブリーな小室を、マネジメント&サジェストする良人材が付かなかった(もしくは去ってしまった?)悲劇ともいえる。
年利60%ものアヤシイ筋からの借金ループに嵌った彼は、彼らにその「小室ブランド」過去の栄光を骨の髄まで使い倒される前に、「地検」という強制権力組織介入で公的清算せざるを得なくなって、かえってよかったのかも、、、しれない。