アート文脈に乗った、爆発アート・蔡國強

さてその広島市現代美術館では現在、『第7回ヒロシマ賞受賞記念 蔡國強展』が行われている。

現代美術を通して世界へ平和を訴えた芸術家に贈られる「ヒロシマ賞」(広島市朝日新聞社など主催)の第7回受賞者で中国籍の現代美術作家、蔡國強(ツァイ・グオチャン)さん(50)=米国在住=が25日午後、広島市中区原爆ドーム付近の河岸で黒い花火を打ち上げるプロジェクトを行った。原爆の犠牲者への哀悼と鎮魂の意が込められているといい、約千発の黒煙火薬を使った花火がドーム上空で炸裂(さくれつ)する様子を多くの市民らが見守った。

ヒロシマ賞受賞作家、原爆ドーム上空に黒い花火打ち上げ
http://www.asahi.com/national/update/1025/OSK200810250076.html

これは、広島市内をバックに黒い爆煙をあげる花火という表現形態をとる。「広島の黒い爆煙」とは、原爆に他ならない。では何故、被爆者達広島市民にとって、この原爆をイメージする爆発アートは「ヒロシマ賞」OKで、Chim↑Pomの「ピカッ」は不快だったのか。欧米アート世界で認められ国際市場で高価な値がついたアーティスト様と、最近湧いて出てデカイことを言い散らしてる若者連中いう、国際ナントカへのへたれという内輪ノリと共存する島国根性もあるだろう。だからこそ「日本のアートは10年おくれている」という言い草がアジとして成立するのだ。が、それよりも、アート文脈でのそれは、他者・異者への応答可能性をもったロジック構築の大きな違いによる。
最近では北京五輪開会式の花火ディレクターを務めた中国福健省出身の蔡國強(Cai Guo-Qiang)は、火薬を多用した爆発アートという表現形態で各地をパフォーマンスすることで有名なアーティスト。9年ばかり日本に滞在し、筑波大学総合造形研究生であったが、梱包芸術が発展したクリストの「アースワーク」=環境芸術*1に、多大なるインスピレーションを得、文明の創造と破壊の象徴である「火薬」に着目しだした。
「人間は物体としてこの時空に存在することに不快を感じ、沸き起こる欲望を火薬という暴力的な手段によって外に発散し処理してきた。私は暴力がすべてを創造し、またすべてを破壊したことをよく知っている。」「火薬に集約される人間の一面にある暴力的本性が遍在するとき、戦争が発生する。芸術やスポーツは、そうした人類の根源にある衝動を浄化する役割を担うものだ。」という彼は、その火薬の「コントロールした暴力」を再構成表現することで創造へと転化する契機を、インスタレーションとして提示する。
特に後から検証しにくいインスタレーションを方法論として用いる場合では、発想・計画の起床段階から綿密なコンセプト開示が、作者に要求される。しかし再現が困難な一回性のインスタレーションでは作品としてビジネスはなりたたない故、その過程であるコンセプトのエスキースやシュミレーション・イメージやミニチュアモデル等の具現物での開示という方法で、計画の展示品として鑑賞・売買される。そのロジックの通りと、インスタレーションそのものの出来・完成度をもってして、初めて現代アートたりうるというのが、現代アートの文脈である。しかしワタクシ的には、「花火」というしかけそのもの人々の牧歌的驚きにたよること大な蔡の表現レベルは、繰り返す程に陳腐・凡庸化していき、だからこそ「ヒロシマ*2など暴力の記憶が濃い場所を「借景」として表現の中に必要とするのであるが、その記憶を拝借した部分だけ表現としては自律していない弱いものといえる*3。そのような訳で、アート的にはBC級なものだと考えている。
広島県原爆被害者団への謝罪後の記者会見で「世界の人が平和について想像できるチャンスをつくりたかった」と語ったChim↑Pomリーダー卯城竜太であったが、今更ながらにとってつけたようなその良い子的釈明は、現代アート・コンセプトの説明としても「面白ければよい」というアート文脈に物申すかのようなChim↑Pom活動総体からしても、あまりにも稚拙でスジの通らないことはなはだしいものであった。

*1:日常品をあざやかな布で覆って日常の中に提示することで、無意識の再意識下をねらったそれが、ビルや塔や橋といっただんだん大きなものから自然景観に発展した。日本では茨城県で「アンブレラ・プロジェクト」を実現。

*2:その昔蔡は、原爆発射高度で花火を爆破させるという「リトルボーイ」計画を立てたが、危険すぎるということで中止。

*3:社会派アートの脆弱さも、「社会的テーマ」に全面的に寄り掛かるという表現のこのような性質にある。>id:hizzz:20080521#p4