1950年前後の米国社会不安と保守化

ちなみに日本の大麻規制の経過は、1947年2月「繊維を採取する目的による大麻の栽培に関する件」GHQ覚書→4月 厚生・農林省令第1号「大麻取締規則」→1948年「大麻取締法」成立。1945年9月2日ポツダム宣言受諾した日本は、GHQ管理下に1952年4月28日まであったのであるから、その間の全ての内政規則はGHQ統治下にある。したがって、「アメリカに言われたから」とするinumashさんの趣旨そのものは問題はない。変なのは取締規則に影響をもたらした米国社会の捉え方である。
id:hizzz:20080315で書いた通り、1924年の割当移民法で外国からの移民は制限されたものの、南部から東北部・中西部の大都市へ黒人が移住した。また、ヨーロッパからの移民も第二次世界大戦の激化とともに増加の一途をたどり、大都市圏が発展した1950年代にかけては、“Dual Migration”と呼ばれる人種・社会的地位の相違に応じた棲み分け、中上流白人は都市を脱出して郊外へ、農村黒人・アジア系・ヒスパニック・貧困白人が都市中心に移住し貧困再生産で都市スラム化が始まった。彼ら貧困層の社会的上昇移動のチャンスはきわめて限定されていた。それにより、差別が進行した。
自分達と違う文化習慣を持つ者達におののく中上流白人たちは、その違いに極めて敏感になりプロテスタント的倫理にそぐわない行いには不寛容となっていった。同じ白人とはいえ、カトリックコーザ・ノストラ系の24ファミリーは、1920〜30年代にそんな都市を根城としイタリア系移民中心に大きな勢力と専門的技術を獲得し、 1950年代には組織犯罪の支配者に君臨する。そのことが、社会世論をして犯罪取締強化・罰則強化に向かう。
第一次世界大戦後の混乱の中、1917年禁酒法はそうした大覚醒運動*1の許に施行された。また、その時と冷戦が表面化した1948〜50年代前半のマッカーシズムレッドパージ=反共保守の嵐は、米国社会不安の現れである。さまざまに国民の思想信条が糾弾されて公職追放になっていく中で、犯罪取締・罰則はいずれも脊髄反射的有効手段としてひたすら強化され、大衆自らが告発・糾弾行為に巻き込まれていった。大麻取締強化もその流れのひとつであり、「産業からの移転効果」なんぞではない。
1940年代の終わりから50年代にかけて、アメリカの薬物管理政策はかつてない厳罰政策を採っていく。連邦議会は1951年、薬物犯罪者に対する厳しい必要的最低量刑“mandatory minimum sentences”を定めたボッグス修正案“Boggs Amendment”を成立。56年未成年者への薬物販売に対して陪審員に死刑選択肢を与え、連邦麻薬捜査官に火器携帯を認める、麻薬取締法“Narcotics Drug Control Act”が成立したのであった。
日本の占領政策でも、対立の末に民主化改革に熱心なニューディール派(民政局ホイットニー)が後退し、後半は反共保守派(総司令部ウイロビー)が台頭し、初期の政策はおおきくブレた。

社会集団は、これを犯せば逸脱となるような規則をもうけ、それを特定の人々に適用し、彼らにアウトサイダーのレッテルを貼ることによって、逸脱を生み出すのである。この観点からすれば、逸脱とは人間の行為の性質ではなくして、むしろ他者によってこの規則と制裁とが『違反者』に適用された結果なのである。逸脱者とは首尾よくこのレッテルを貼られた人間のことであり、また逸脱行動とは人々によってこのレッテルを貼られた行動のことである。

ベッカー『アウトサイダーズ―ラベリング理論とはなにか

*1:現代の“Evangelicals”プロテスタント福音派と呼ばれる保守派のファンダメンタリストが、この大覚醒運動につながる立場の人々だ。