批評の様式化

批評は、事象を二分して批評する/されるの、主体/客体の決定から始まる。
かって表現における権威は、権力存在によって保護された。為政者権力のパトロンという支配/保護が薄れてきたモダンの平地で、自律しかつ表現権力として表面張力を保つには、批評性というある種の毒を芸術作品の内部として持ち合わせていることが必須であった。ブルジョアジーの欲望に添いながらも、最後の一線ではその欲望に痛烈な一撃を喰らわせる創造。その裏切りのような作為が有効であればある程に、作品成立過程や所有者や世相や時代からの作品の自律が果たせる、つまりそれらとの権力闘争に創造は勝利するわけなのである。モダン以来、最も良質な芸術作品とは、このような狡猾ともいえる重層構造を持つものである。それが故に時代を切り開くことも可能となる。
問題はそこからである。そうやって切り開いた後のハナシである。その批評性がものごとの中心にどっぷりと鎮座してしまう、様式化ということである。批評はその批評的機能をもって、批評自身に対する批評を排除する。また批評はその力によって、創作作為そのものも時には排除してきた。曰く「神は死んだ」に始まる数々の死亡宣告である。それこそが批評の権力であり、同時に致命的欠陥である。
批評は有効賞味期限が切れてその批評の土台となった批評されるものが風化しても、批評するものを過剰に保護してしまうのである。しばしば、時代に添うもの=屈伏したものというラベリングから逃れる為の防御と立ち位置保持の為だけに、その批評権力が行使される。それは批評性=文芸の本望ではない。むろん創作芸術の本望でもない。
創作の世界は、つねに既成創作に対する健全な批評を契機に、新しい創作と批評を生み出してきた。が、その批評性がパターン化して様式美としてひとつのジャンル化されると、それは家元制度的再生産システムとなる。そのシステムは、批評が権威を保護し永続させるという、権威と批評の逆転である。広大な芸能・芸術を支配する為政者権力が消失した20世紀以降の世界は、この批評性がその賞味期限を過ぎて生き残り、世界を二分し続けているのである。創作という地場を持たない批評家にとってこのシステム構築は、自己と自己批評世界を担保し永続させる強力な欲望構築であるが、その様式伽藍の内部では創作は生まれない。最初に書いたとおり、自律する作品内部でセットされる批評性とは、外部的まなざしであるからだ。また一方で批評性とは、斜に構えて、時代から自己防衛するポーズでもあったのだが、もはや斜に構えているようなブルジョアジーな余裕は、社会にはとうにない。外部を消失した批評家は、批評対象の創作に走るという自作自演を行ってまでも、批評権威を永続させる自家中毒に至る。