放棄された再構築

今年に入って「ネタのタネ」では、歴史ネタを随分扱ってきた。id:hizzz:20080213#p1で歴史の見方について1.地域的為政者同士の政治経済事件中心、2.為政者または重要事件当事者とその周囲群像、3.社会文化中心、4.最新理論による構造実証と、4タイプに分けてみたが、「ポスト構造主義」に該当するのは、3アナール派のような民族学・人類学や、構造主義社会学史学的論見地からの事象と4他学問で発達した最新方法論を使って事象構造を多角的に相対比較・実証するものである。当はてダでは主にこの3&4的切り口の許にモダニティについてあだこだ探っていた。しかし「ポスト構造主義」的見地をとれば、「南京事件あるかもしれないし、ないかもしれない」とは到底ならない。なぜなら、固定していた視覚の1面規範からでは隠れていた事象も、ひとつの物事を多角的に立ち位置を変えて立体的に見て再構築していけば、出現していることが明白になるからである。その為の構造把握である。旧日本軍公文書というような文書主義=固定していた視覚の1面規範だけではなく、さまざまな見地から検証して統合して、「南京事件はあった」と「ポスト構造主義」的にも再構築されてるのである。少なくとも建築・デザイン分野に於ける「ポスト構造主義」も、解釈ではなく、このような構築手法のことを指しているのである。
それが「あるかもしれないし、ないかもしれない」となるのは、固定していた視覚の1面規範をただ脱構築した=批評断片化しただけだからである。それは仕事の半分でしかない。冒頭に書いたように、「作品というマテリアルに具象結実してみせて初めて成立する」ということは、その脱構築したものを、“de-sign”再構築してみて初めてそれがなにものかであるのかが、判るのである。確かに再構築の仕方は数限りなくあるが、その結実作品の出来を逐一問われつづける立場でありつづけるのが、作者の責務である。そして、その脱構築&再構築の手段の妥当性を、常に問う役割を負っているのが批評ではないだろうか。


批評まわり
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・フラットでガラガラポン id:hizzz:20080213
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・主体なきモダン id:hizzz:20080619#p4
・思弁にタガを嵌める理性 id:hizzz:20080607#p3
アイデンティティの袋小路 id:hizzz:20061005
歴史認識問題
・つわものどもの夢の跡な武士道 id:hizzz:20080302
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・美しい日本のアタシの繕い方 id:hizzz:20080401
・人、女、第三の性 id:hizzz:20080315
・国家と民族文化と個人と id:hizzz:20080405
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