要請された巨悪

二項対立を解消する筈のポスト構造主義運動の前提にあるものは、その二項、形式/自由の永遠の対立・分裂であり、自由の要請に対して形式を刷新する際の形式の抵抗という前提である。それ故に、刷新を持ちかける者としての批評家という自由存在は正当化された。それはもろ刃の剣だった。
そのシナリオの真の主題は、「克服する新たなシステム(テクノロジー)」についてである。しかし、企画しようとしたブランニューがなんらかの妨害があることで実現できないのなら、その妨害に対する対決姿勢さえ弁証法的に見せ続けさえいれば、それだけで主体は立つ=立ち位置保障で安泰。いうところの「新たなシステム(テクノロジー)」の内容については深くは問われない。このような批評解釈形式が流通すれば、実際のアイデア&刷新能力やその結果責任も負えない「知識・文化人」評論家が、単にシステムの弁証法的刷新を唱えるダケな観念的存在=言うだけ大臣が正当化されるのである。問題とする実情はなんの変化もなしに。むしろ刷新を阻む巨大な抵抗圧力、形式と自由の分裂を彼らは自説の為に必要とし、その状態をコントロールし続ける為に、前提創造に手出ししたのである。「<帝国>」が一番必要で切に望んでいたのは、それを批判アイデンティテファイする者だったのだ。
だが、その弁証法的立場も、その「妨害悪」が無い・消滅した時はじめて、ブランニューである必要性、自由の意味を具体的に問われる。だからなのか、最近では批評も又、自らを死亡宣告しているようなのだが。
現代は批評が権威をささえていたのである。第一線で活躍する芸術家達は、そんなことはとっくに気がついていて、最低限の「コラボレーション」的繋がりしか求めなくなっていったのに、にもかかわらず批評家はいまだに、産学生活丸ががえの「共同体」を夢想してやまない。最近の政局をめぐるメディア報道=つくられる世論のようにid:hizzz:20081129、昨今は賞味期限をすぎた批評性によって、権威は保護され固定化してるケースが多い。アカデミズムの中で閉じた弁証法として形式主義の弱点を補完する目的で、そのうわばみばかり解釈手段として転用徴用されている表現主義ポスト構造主義運動に、具体的なんの「新たなシステム(テクノロジー)」があるというのだろう。ただ既存価値をいたずらに融解することのみに機能を発揮してそれだけでは、後はそれこそ批評が二分するという隠された権力による全体主義な枠しか残らないことになってやしないのか。
ポスト構造主義が本来批判し刷新すべきシステムとは、このような批評パラドックスそれ自体ではないだろうか?