ヨーロッパ的アイデンティティの確認

EU強化政策は現在、行政的コントロールという方法の限界に突き当たっている。共通の経済圏・通貨圏の構築過程で、これまではオフィシャルな命令が改革を先導してきた。だが、こうした駆動力はもう限界に来ている。市場競争の障害除去を加盟国に要求するだけでなく、一つの共通意志の形成を働きかけるような創造的な政策こそが必要なのだ。そのためには市民自身の動機付けと強固な意志が不可欠である。外交方針の効果的な決定のために多数決が許容されるとしても、表決で敗れた少数派が多数派と連帯してその決定に従うことが必要になる。その前提となるのが政治的な共属性の感情である。各国民は自らのナショナルなアイデンティティをいわば「建て増し」して、そこにヨーロッパ的次元を住まわせなければならない。自国民への帰属性だけに限定された国家市民的連帯性は、現在ではもはや抽象的な意味しか持っていない。将来それはさまざまな他国民を含むヨーロッパ市民の連帯性にまで拡大されなければならないのだ。

このことは「ヨーロッパ的アイデンティティ」とは何かという問いを引き寄せる。一つの政治的運命を共有しているという意識、共通の未来への説得力ある展望――それだけが、表決で敗れた少数派が多数派から離反する事態を回避することができるのである。一つのネイションに属する市民は、他のネイションの市民を「われわれの一員」とみなさなければならない――そのことが基本だ。だがこれは必須であるにもかかわらずいまだ満たされていない条件である。懐疑論者たちがこぞって同調するに違いない次のような問いが、そこから現われてくる。――政治的運命を共有してきたという意識、あらたな運命をともに作り出してゆこうという意識を「ヨーロッパ市民」のために誂えてくれるような歴史的体験、伝統、苦難のはての成果といったものが、そもそも存在するのだろうか?――と。魅力的で伝播力のある未来ヨーロッパの「ヴィジョン」は天から降ってくるわけではない。現在ではそれに不安にみちた困憊の感覚からしか生まれない。だが言いかえれば、われわれヨーロッパ人が自分自身に投げ返されているという、この苦境のなかからこそ、それが生み出されうるということなのだ。そのヴィジョンは多声的な公共性の、あらあらしい不協和音のなかで、自らを語り始めるにちがいない。これまでこの主題が一度として日程に載せられなかったとすれば、それはわれわれ知識人の怠慢のせいである。
たんなる理想についてならひとは容易に一致できる。われわれすべての念頭に浮かんでいるのは、平和で協調的なヨーロッパ、他文化に開かれた、対話能力のあるヨーロッパのイメージである。われわれが祝福するのは、20世紀後半に二つの問題について模範的な解決を見出したあのヨーロッパである。EUは今日すでに、ポスト・ナショナルな状況のなかでやがて数を増してゆくだろう「国民国家を超えた統治」の最初の形式として登場している。ヨーロッパ的福祉政体もまた、すでにながく模範としての役割をはたしてきた。それは現在国民国家のレベルでは守勢に立たされているとはいえ、これらの福祉政体が打ち立てた社会的公正性は、ボーダレスにひろがる資本主義を未来の政治がコントロールしようとする場合にも、それより後戻りすることがゆるされない基準となっている。これほどのスケールを持った二つの問題をヨーロッパが解決した以上、つづいて現れた課題――国際法にもとづく世界秩序を、これに逆らう多くの抵抗から防御しつつ、さらに先へ進めようという、あらたな課題――にどうして立ち向かえないことがあろう?