ヨーロッパを再構築するEU

二つの日付を、われわれは忘れるべきではあるまい。一つは、スペインの首相がブッシュへの忠誠を表明したことを新聞が報じ、読者を唖然とさせたあの日のことだ。スペインの首相は他のEU諸国に隠れて、戦争に乗り気になっていたヨーロッパの諸政府に対し、この忠誠表明に同調するよう誘いかけてもいたのである。もう一つの日付、2003年2月15日も同様に忘れるわけにはいかない。この日ロンドン、ローマ、マドリードバルセロナ、ベルリン、パリで大群衆のデモが、この不意打ちの政治劇に抗議した。これらの圧倒的なデモンストレーション――それは第二次世界大戦以後最大のものであったが――の同時性は、後世から見たら、ヨーロッパ的公共性の誕生を告げるシグナルとして歴史書に記されるものとなるかもしれない。
イラク戦争開戦までの鉛のように重苦しい数ヵ月の間、倫理的に許容しがたい一種の分業がおこなわれて、われわれの感情を混乱させていた。一方には絶え間ない兵力増強による大規模な戦争準備行動があり、他方には諸々の人道的援助機関のあわただしい動きがあり、それらが歯車のように正確に噛み合っていたのである。スペクタクルは大衆の目の前でおかまいなしに進行した。だがその大衆こそは――自らのあらゆる発言権を奪われて――犠牲者となりかねない存在なのだ。ヨーロッパ市民を共同で立ち上がらせたものは、疑いもなく感情の力であった。だが同時にこの戦争によってヨーロッパ人は、自らの共同の外交がすでに挫折の軌道に入ってしまったことに気づかないわけにいかなかった。国際法が何のためらいもなく蹂躙されている。国際秩序の未来についての闘争が世界中で巻き起こった。ヨーロッパにおいてもそうだった。しかしこうした議論の分裂からこうむる傷は、われわれヨーロッパ人にとってひときわ深いものであった。
すでに誰もがうすうす気づいていた断層が、この論争を契機としていっそうするどく露出してきたのである。超大国の役割について、未来の世界秩序について、国際法と国連の重要性について、いくつもの異論が表明され、そのことがこれまで潜在的だった対立をあからさまに露呈させた。一方には、大陸の国々とアングロサクソンの国々との間の裂け目があり、もう一方には、「古いヨーロッパ」と中央ヨーロッパのEU加盟希望国との間の裂け目があり、それらがともに深々と口を開けた。イギリスにおいて合衆国との特別な関係(スペシャル・リレーションシップ)はもはやいかなる意味でも自明とは言えなくなっていたのに、ダウニング・ストリートの優先順位のなかでこの関係は、あいかわらず最上位に位置していた。また中央ヨーロッパの国々は、EUに加わろうとする一方で、ようやくにして獲得したばかりの自らの国家主権をふたたび制限されることにためらいを感じていた。つまりイラク危機はたんなる触媒にすぎなかったわけである。ブリュッセル憲法会議においても対立が露わになった。EUの真の深化を求める国々と、EUによる間主権的統治を現在の方式のまま凍結してしまうか、せいぜいうわべだけ変更することにしか関心を持たないらしい国々とのあいだの対立。この対立を見ない振りして、もはやこれ以上ことを進めるわけにはいかない。
将来EU憲法ができれば、われわれはヨーロッパの外務大臣をもつことになろう。しかし各国政府が共通の政策に合意しないかぎり、新しい官職をつくったところで何になるだろう。変更された職名のもとにフィッシャーのような人が就任したとしても、ソラナ(EU共通外交・安全保障担当上級代表)と同じく無力でしかあるまい。EUにある程度の国家的諸性格を付与しようとしているのは、いまのところおそらくヨーロッパ中核をなす加盟国だけだ。ヨーロッパ「固有の利害」を定義するにあたって一致しうるのがこれらの国々だけなのだとしたら、いったい何ができるというのか?ヨーロッパを解体したくないならこれらの国々はいまこそ、「さまざまな速度からなる一つのヨーロッパ」における共通の外交・安全保障・防衛政策に着手すべく、2000年ニース会議で決議された「強化された共同作業」のメカニズムを行使せねばならない。そこから一種の吸引効果が生じ、他の加盟国――さしあたってユーロ通貨圏内の――も遠からずそれに合流するだろう。将来のヨーロッパ憲法の枠内では分離主義は許されないし、また不可能である。「先行」することは遅れたものの「排除」を意味するわけではない。先進的な中核ヨーロッパだけが分離して小ヨーロッパを称することは許されないのである。これまでもしばしばそうであったように、むしろそれは「機関車」たらねばならない。EUのうち協働をより密接なものにしようとする国々は、他ならぬ自らの利害のために各々の門戸を開き続けることだろう。あらたに加わる国々はこれらの扉を通ってそのなかにはいってくる。中核ヨーロッパが外部に向かって行動可能な存在となること、複雑な国際社会の中で軍事力だけが幅をきかすのではなく、持続的交渉・関係調整・経済的利益などの柔らかな力が有効に機能することを証明してみせること――それが早期に行われるほど、他の国々の参入もすみやかなものとなるだろう。
戦争か平和かという、愚かでもあり犠牲も大きい二者択一に向かって政治が先鋭化することは、現在の世界ではもはや条理にかなわぬものになっている。ヨーロッパは自らの存在の重みを国際性のレベルで、すなわち国際連合の枠の中で示すことによって、合衆国の覇権的な一国主義とバランスをとらなければならない。世界経済サミットにおいて、また世界貿易機関世界銀行国際通貨基金などの諸機関においてヨーロッパは、未来の世界規模の内政(ヴェルト・イネンポリティーク)のデザイン形成にむけてその影響力を行使すべきだろう。