人権の義務と権利

過去のイラク人質騒動から昨今の「派遣村」ホームレス差別まで、権利侵害された者や支援者が「人権保護」を行政府に要求する動きは、世間・マスメディア&ネットの一部ではとかく被保護者=迷惑者として「保護に値する人格・資質」=義務履歴を厳格に質され、少しでも言動経歴に「問題有り」と見るや否や、人格批判を伴う周囲を含めた揶揄〜バッシングにさらされるような、明らかに度を超えたプライベート詮索・締付けが加熱するセカンド人権侵害が幾つか見られる。個人権の尊重・公的保護の度合と個人格資質&公的義務度合は、果たしてそんなにバーター「自己責任」なのもので成り立つであろうか?果たして「義務」をより詰問されねばならないのは、個人か機関・政府か?
日本政府も批准している国際的な各人権条約に加え、日本国憲法でも「第11条:国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」であって、「人権の享有」を果たすべく配慮「義務」は、個々の国民よりも先に立法府たる行政府にある。従って、既成制度が上手く機能していないのなら、その行政府の長は適切に動くよう差配せねばならぬし、既成制度の欠陥でどうにも動かないのなら、該当制度改正または新制度をつくるのが立法府と政治家の「義務」責任である。これはなにも日本国にかぎった仕儀ではなく、民主主義憲法を持った各国での、個人と機関・政府との権利・義務関係は、大抵そのように法解釈されている。
このような人権の権利と義務の関係を、上にあげた「人権」と「人間開発」の二つの視点を使って『UNDP人間開発報告書〈2000〉人権と人間開発(日本語版)』では、「人権は、対象となる人々が、その権利が保証する自由や制度を確実に利用できるときに実現する」として、以下のように考察している。(例によって、↓以下「■タイトル」はワタクシが便宜上つけたもの)