義務要求の無視は、機関・政府の重大な道徳的政治的怠慢

・人権にともなう義務の特質
人権にともなう義務はどのような形をとるべきであろうか。それらは誰に適用されるのか。どの程度の強制であるべきか。権利、より厳密には法的権利に関する幾多の著作では、権利はそれを確実に保障する特定の個人または機関に、必然的に課される厳密に定められた義務と組み合わされていなければ意味をなさないものであるとしている。それゆえ、ある事項に対する個人の権利とは、他者(または他機関)がその項目を当該個人に提供する義務をつねにともなわなければならない。これは18世紀の偉大なる哲学者であるイマニュエル・カントが「完全な義務」と呼んだものに一致する。それは権利を、特定の主体が担うあらかじめ厳密に定められた義務と、完全かつ緊密に結びつけている(形の上では、倫理体系における完全な義務はむしろ法的義務に近い)。対照的に、やはりカントが探究した概念である不完全な義務とは、助力する側の一般的かつ強制的ではない義務をいう。これははるかに緩やかなシステムである(これについてはアマルティア・センが1999年『Consequential Evaluation and Practical Reason』=「帰結的評価と実践理性」*1で解説している)。というのも不完全な義務はどのようにそれが遂行され、また、どの程度その義務に強制力があるかが、依然未解決であるからである。それでもなお、不完全な義務に対する要求を無視することは、重大な道徳的または政治的な怠慢でもある。
完全な義務という形での、権利と義務の厳格な結びつきを主張する人々の典型的な傾向として、明確に定義され不可避的な義務を負う特定の機関を明示せずに、ある権利の実現を保証することが「権利」という言辞を弄して説明されることに不寛容である。これらの権利を実現する機関と、その明確な義務を用いることに、彼らが多くの場合非常に批判的であることは驚くにはあたらない。そして人権を要求することは、このような考え方に従えば「いいかげんな話」のように映りがちである。
しかし、こうした要求はいい加減な話ではない。実際、もしこうした見方を完全に受け入れなければならないとすれば、人間開発に関する研究は、分析上、人権アプローチから切り離す必要があるだろう。たとえ、人権という言葉のもつ修辞的、宣伝的な価値が、解説や「意識向上」という観点からはただちに容認されるとしてもである。しかし、ある取組の本質から言葉の使い方を分けることは、当初から、明確な主張には不釣り合いな感動的な言葉や言いまわしを使うより、整然とした概念と厳格な論証に立脚してきた人間開発の文献の伝統には、まったく反するものである。

*1:アマルティア・セン教授とのワークショップ』学術振興会アマルティア・セン特別招聘事業関連資料集
センは国連で「人間の安全保障委員会」の共同議長を緒方貞子と共に務めた。