他者・社会的仕組みに対し、人々は要求権利をもつ

・法的権利と人権
権利と義務の関係は、非常に重要な問題としてとらえる必要がある。すでに、権利と義務には何らかの形での結びつきが必要であるとの議論が展開されてきたが、なぜ、権利は特定の機関に厳密に適用されるべくあらかじめ規定された義務と正確に対になっていなければならないと主張するのだろうか。こうした厳密な形での権利と義務の関係の強調は、法の帝国(empire of law)の単なる副作用であり、あらゆる権利の行使を、倫理的なものであれ政治的なものであれ、究極的には、唯一法的権利に適用される概念と発想に帰結させてしまうといえよう。
この厳密な見解はジェレミーベンサムの「権利の宣言は義務の宣言がなければ一方に偏った行為であるに過ぎない」という主張に一致する。これはまた「“自然権”の倫理的主張は“ナンセンス”(おそらく意図的に大げさにしたナンセンス)である」というベンセムの説にも合致する。この見方はベンサムや他の多くの学者が、本質的な法的概念の適切な使用であるとしている以上の権利について考えることは、いかなる法律が施行されているか否かにかかわらず、「人々は他人や社会的仕組みに対して要求する権利をもつ」という基本的な考え方に反する。実際、この考え方は世界人権宣言第一条にはっきりと表明された、市民共同体と連帯に対する誓約である。この条項は、何人も他者に危害を加えないこと、他者を助けるということという二つの義務を負うとの考え方を推し進めている。宣言は、法律の如何にかかわらず個人は人間であるが故に一定の権利をもつのであり、市民としての身分や自らの国における法的現実にかかわる偶然の事実に左右されるわけではない、との見地に立って、不当な法律と慣習からの保護を求めている。人権は、何人や集団としての機関がとる行動や社会的仕組みの意図に対する、倫理的な要求である。人権は、対象となる人々が、その権利が保証する自由や制度(適切な保険医療、言論の自由)を確実に利用できるときに実現する。多くの場合、法的権利の確立は人権の実現を促進するうえで最良の方法であろう。しかしながら、法的権利は人権と混同されるべきではなく、また、法的権利だけで人権が実現できると考えるべきではない。
これは実際、『人間の権利』を著したトマス・ペインや『女性の権利の擁護―政治および道徳問題の批判をこめて』の著者であるメアリー・ウルストンクラフト(両著作とも1792年)等の一般政治理論学者や、さらにさかのぼって社会契約説の流れに属するジョン・ロックジャン・ジャック・ルソーなどが訴えた権利に対するアプローチである。彼らは、すべての人は、制度上の仕組みや他者の行為に制約を加える社会制度の成立に先んじて、権利が与えられていると主張している。権利についての議論は法的要求の限度を超えることはできないという主張は、社会の中で施行されてきた厳格な法律には依存しないという考え、つまり社会生活における連帯や公平の意識を十分に評価していない。