ホロコーストの記憶とディアスボラ・アイデンティティ

前回書いたとおり、ドイツは加害者の「過ぎ去らない過去」を負から正のアイデンティティに変えて体制化していったように、イスラエルも又、ホロコースト被害者たる過去価値を変容させて受け止めようとした。
当初シオニズム主流派のイデオロギーは、ヨーロッパのユダヤ人が無抵抗のまま強制収容所に送られガス室入りしたことを、弱く臆病で常に受け身でしか行動しない「ゲットー・メンタリティ」と見下した。イスラエルに逃れてきた生存者は、当地生まれの若者達に臆病者・意気地無しという意味を込めて「サボン(ガス室行きにカモフラージュとして配布された「石鹸」)」と揶揄された。ほかの地域に逃れていった人々も、場合によってはドイツやポーランド風の名前を替え腕の入れ墨も消し、または映画『アンネの日記』の主役オファーを断ったアンネ・フランクと同年代のオードリー・ヘップバーンのように、多くの体験当時者は自らの忌わしい経験について沈黙を守っていた。>ウィリアム・スタイロンソフィーの選択』など
しかしそれが好転するきっかけは、逃亡・潜伏していたアルゼンチンから連行されてエルサレムで行われた元ナチ親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンの裁判だった。裁判で明らかにされた国家保安本部で「ユダヤ人問題の最終解決策」とした「ユダヤ人殲滅」の実状が、数々の証拠・証言と共に報道され、それへの「罪」と「裁き」は、ハンナ・アーレントイェルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告』によれば、シオニズムイデオロギーを語りユダヤ人意識を強化する教訓を伝える舞台としての役割を担ったという。ディアスボラ(離散)・ユダヤ人は、イスラエル建国によって初めて、ユダヤ人が「羊のように無抵抗で殺される」ことなく防衛のためには反撃する民族になったという論理立てでもって、負を正にしたユダヤ民族史の歴史認識への国民合意に至ったのである。
「教科書で扱われるホロコースト強制収容所の話は、そうした苦しみの中にあっても自分を犠牲にしてまで何とかほかの人を助けようとする勇気ある子供たちの「英雄物語」とセットで登場する」と興味深い観察をする立山良司は、イスラエルのこうしたホロコーストアイデンティティを端的に指摘する。

イスラエル社会科学者S・N・アイゼンシュタットによると、ホロコーストは二つのメカニズムを通じて、シオニズムおよびイスラエルという国家に正当性を提供している。多数の無力なユダヤ人が殺戮されたという事実は、ユダヤ人が拠点となり、かつホロコースト生存者を保護する場所として自分たちの国をもつべきだというシオニズムの基本的な前提を正当化する。他方で、1943年に起きたナチスに対するワルシャワ・ゲットーでの武装蜂起のようなホロコーストにおける英雄的な行為は、シオニズムあるいはイスラエル建国後のヒロイズムの前史と見なされ、それによってシオニズムユダヤ人の過去と歴史上の連続性を獲得したという。
このように見るならば、ホロコースト記念日の正式名称が「ホロコーストの殉教者、および英雄を記念する日」であるように、ホロコーストの悲劇とそれにかかわる英雄物語はつねにセットで提示されなければならないのである。

立山良司『揺れるユダヤ人国家―ポスト・シオニズム

しかしそれが、ほかの民族との関係において、自己アイデンティティを確認すればする程に、「ユダヤ人を守るためには何をしても構わない」「占領地からの撤退を阻止するためであれば非ユダヤ人に対するテロ行為も許される」大イスラエル主義ともいえるユダヤ/非ユダヤという二項対立的世界観の重ね合わせな「エレツ・イスラエルイスラエルの地)」絶対観に、いとも容易に結びついてしまう。そのような自責ドイツ人と自虐ユダヤ人というように、国家・国民・民族概念を意識・身体化してアイデンティファイすれば同時に持たざるを得ない「過ぎ去らない過去」=「原罪」的起点については、ミヒャエル・ヴォルフゾーンが以下のように切りこむ。

極論すれば、ドイツ人の未来に対して、ユダヤ人の歴史からある種のアナロジーが導き出されよう。政治的機械主義の経過と効果を特徴的に示すアナロジーである。すなわち、ユダヤ人が二千年にわたってキリスト殺しの烙印を押されてきたように、ホロコーストつまりユダヤ人殺しは何世紀にもわたってドイツ人を拘束するであろう。
キリスト殺しとホロコーストいずれの場合も、同時代の人びとに「集団の罪」はなかったし、後の世代には個人的にも集団的にも罪はない。だが、いずれの場合にもカインのしるしは、過去、現在、未来の世代に代々引き継がれる道具であり、論拠でありつづける。後の世代は、政治の領域でパヴロフの犬のように反応するのである。ユダヤ人に関して言えば、条件反射として出てくるのは「キリスト殺し」という言葉であり、ドイツ人に関しては―長く変わることはないだろうが―アウシュヴィッツである。

ミヒャエル・ヴォルフゾーン『ホロコーストの罪と罰―ドイツ・イスラエル関係史

そしてヨーロッパ・ドイツからイスラエルに引きつがれてしまったそんな「カインのしるし」=負の連鎖については、以下のように指摘する。

ユダヤ人はユダヤ教と切り離されてしまった自分のアイデンティティを民族の歴史を通じてふたたびユダヤ化するために、ホロコーストにしがみつかねばならない。そのために彼らは、とりわけホロコーストというカインのしるしのついたドイツを必要とするのである。
ドイツがユダヤ人に縛られているのと同様に、ユダヤ人もドイツに縛りつけられている。

アラブ中東世界を共約不能な絶対的他者と表象する諸言説を積み重ねて、ヨーロッパは遂行的にアラブ中東世界を未開の地オリエントとして劣位化することで、ようやっと自らを比類なき光輝く文明の地ヨーロッパとして自律主体→普遍化する。が、その近代ヨーロッパ世界と遭遇することによってアラブ中東世界、とりわけ知識人は、近代ヨーロッパ文化や価値観に同化し、近代的知識人として自己形成していく一方で、自らをヨーロッパの異質な他者として発見していくことにもなる。

パレスチナ人とは、シオニズムというナショナル・イデオロギーに支えられたイスラエルのナショナル・ヒストリーの犠牲者であった。「ユダヤ人」の「人種的他者」として「アラブ人」という「敵」を同定し、彼らをパレスチナから徹底的に排除することによって、パレスチナに対して超歴史的な権利を有する。「ユダヤ人」という主役を立ち上げるシオニズム史観において、祖国を剥奪され難民となって離散と流浪を強いられるパレスチナ人の悲劇は居場所をもたない。パレスチナ人の人間解放とは、このイスラエルのナショナル・ヒストリーにおいて抑圧され、否定される「パレスチナ人」の記憶を「歴史」のなかにいかに回復するかに賭けられている。

岡真理『アラブ、祈りとしての文学

とはいえ、「国際社会」と渡り合うためにヨーロッパ的近・現代的価値観を身につけたパレスチナ解放をめざす武装パレスチナ人が、反イスラエルを主張してヨーロッパ〜ユダヤの過去をなぞってしまうような事態になってしまっては、あまりにも知恵がない。