変質したシオニズムとアメリカ

シオニズムの日本のイメージは、ユダヤ教という宗教を結びついた保守・右派的印象で把握されてることが多いのだが、実現しているキブツ(集団農業生産)などの生産システムに見られるように、根本的には社会思想から来歴しているものである。
二国家共存案・バイナショナリズムは、1921年〜39年ハーレントらの「文化シオニスト」のみならず、ワイツマンやベングリオンシオニスト指導部の中で強かったが、民族融合を突き詰めるのならヨーロッパ各地域で融合すればよくてわざわざ1国を創出する必要がなくなるより、ユダヤ的神政を強く打ち出した「修正シオニズム」が運動の公式立場となり、結局イスラエルユダヤ国民国家として建国された。
米国籍ユダヤ移民で、「リバータリアン社会主義の一種を中東の地に実現する」というシオニスト青年運動に参加し一時キブツで働いたこともあったノーム・チョムスキーは、ナチとユダヤ人迫害で後退・一掃されなければバイナショナリズムは十分可能性があったし、70年代初めチョムスキーが再提案した頃は実現可能性があったからこそ、ヒステリックに封殺されたという。また、1971年にイスラエルが講和せず拡大主義に走ったのは、致命的な失敗であり、そのおかげで対立は継続し、イスラエルアメリカへの依存度を高めることになったきっかけとなったと分析する。たとえパレスチナ人国家ができたとしても、「それは(イスラエルと)同じようなモデルに沿って発展していくだろうと予想される。パレスチナ運動は、西側では時折、革命をめざす社会主義者運動であると説明されることもある。だが、それは本当の姿からはほど遠い。」と再三再四にわたって注意を促す。
70年代から彼と親密だったサイードは、第三次中東戦争圧勝と占領支配という90年代オスロ体制で分断されたパレスチナ国家は「バンツースタン(南アフリカアパルトヘイト政策下で、市民権を失った黒人に割当たられた自治区)」でしかないとわかるやいなや独立国家案を取り下げ、リバータリアン的な社会構造を前提としたバイナショナリズムに転向した。チョムスキー的には、実現可能性がまったくない現在、議論すら無意味、欧米ジャーナリズムでとりあげられるそれは実現するリスクがないからこそ取り上げる、むしろ戦術的には有害でさえあると主張する。アラブと「東方(オリエンタル)の」ユダヤ人に対する、組織的な人種迫害に非常に注目し、それらの迫害は大抵学識権威が宗教権威による煽動によって起こるか、あるいは、ユダヤ人大虐殺を合法的に過剰に利用する人物によって煽動されるのだが、イスラエルを支援するリベラル派の人々は誰もこのことについて言わないともチョムスキーは書いている。またある状況(何でも良いが、例えば政治状況、精神状態、芸術や科学の状況など)が、いともたやすく正統に変わるのだという。さらに、「責任がある」「実際的である」「現実的である」といった自己認識で自身の身を固める正統の効能でもって、知識人はそうして自己確認に囚われてわれわれの価値観に疑問を抱いたり、われわれ弁明者の特権を脅かしたりするのを止めることになる、かれらは、急進的な問題に煩わされないためなら、どんな道徳的、知的な犠牲をもいとわない。したがって、純粋なアラブ人の立場には、純粋なユダヤ人の立場に劣らぬほど、利己的な、ナショナリズムに基づく、状況ゆえの理由があり、こと中東問題に関しては、そうした理由がチョムスキーの批判の的となる。
彼によれば、60年代の体制よりのリベラル左翼は、ベトナム戦争に曖昧な態度をとっていた。ベトナム戦争を支持すれば、ニクソンと彼のウォーターゲート事件に結び付けられてしまう。また反戦は、ある意味「国家権力との対立、度重なる真っ向からの抵抗」になってしまう。そこでリベラル左翼正統派はじっと身を潜め、「講和条約」が結ばれると、これまでになく躍起になって右翼や左翼に復讐し、勢力挽回を図って合衆国の道徳的権威の地位に返り咲こうとしたという。「敵を全体主義者、過激派気どりの郊外居住者、反ユダヤ主義者、アラブ人による大量虐殺の支持者と言って弾劾するほうがよほど手軽だった」。そして、ユダヤ人の取るべき道として「ナチの虐殺の恐怖は忘れられないが、そこはもう行動選択の拠り所ではない。難民キャンプの生き地獄のような生活、悪化の道をたどるばかりの悲惨さが政治態度を決めるのだ」と、ホロコーストに訴えることない絶対的な道徳観により、イスラエルの価値は否定し、現代の中東問題のすべてを、第二次世界大戦ユダヤ人が被った苦難の記憶に還元することはできないと言う。

中東地域を組織化し、支配するために、アメリカ政府はイギリスが設計したシステムの基本構造を引き継いだ。現在の運営は「アラブの見せかけ(ファサード)」が行い、「保護領とか、勢力圏とか、緩衝国などといった憲法上の規則によって隠蔽しながら」植民地が併合された。これは直接支配よりもコスト効率のよい発明である(カーゾン卿と東方委員会1917〜18年)。「見せかけ」には「表面的な主権らしさ」だけが与えられるべきだと、パレスチナ・トランスヨルダン担当のイギリス高等弁務官は1946年に国連による植民地要求をまぬがれるための方策を説明した。だが、我々はけっして「抑えが利かなくなる」ようなリスクをおかしてはならないと、ジョン・フォスター・ダレスは、アメリカがイギリスの体制を引き継いだときに警告した。
この着想は伝統的なものである。同じ考え方が、西半球におけるアメリカの政策、東ヨーロッパにおけるソ連の政策、南アフリカのバンツースタン時代、今日のアメリカとイスラエルの中東和平政策などに指針を与えてきたのだ。イギリス支配下のインドのような完全な植民地でさえも、ほぼ無難なやり方で使われていた─現地人の「見せかけ」が統治していたのだ。
「見せかけ」は信頼できるものである必要があり、それゆえ弱体でなければならなかった。中東では、名門一族による専制支配が好まれた。どれほど暴虐にふるまおうが彼らは大目に見られ、それどころか敬意を払われたりさえする。彼らが利益の流れを誘導して、アメリカとその子分のイギリス、彼らのエネルギー企業や、そのお墨付きの企画を潤してくれさえすればよかったのだ。その役目を果たせば、彼らにはたんまりと見返りが与えられるのだが、それを支払うことになるアメリカの納税者にはなにも知らされない。
1973年以降は石油価格の一時的な上昇のため、アメリ財務省はオイルダラーを再循環させるために武器輸出や建設プロジェクトの請負などの方策を取ることを迫られた。原油価格の上昇にアメリカがとくに異議を唱えることがなかったのはこれがうまく働いたことが一因である。もうひとつの理由は、アメリカの石油会社が原油価格の急騰(アメリカの主要輸出品をふくむ消費財価格の上昇と並行して)で大儲けをしたことだ。これらの要素によりアメリカは中東の石油輸出国機構OPEC諸国との貿易収支を1974年から75年にかけて黒字に保ち、アメリカ企業は巨額の利益を上げることができ、財務省にはサウジアラビアによる米国債の購入で数十億ドルもの資源が還流する結果になった。
だが、「見せかけ」の現地政権が弱体で従順でなければならなかったことは問題を生んだ─現地の住民たちが資源の恩恵は自分たちが受けるべきたという考えに染まったために、国内の政情不安が起こったのである。このような「急進ナショナリズム」から、「見せかけ」を守ってやらねばならなかった。そのためには、ニクソン政権が「現地のおまわり」と呼んだような地域用心棒が必要だった。そういうものは非アラブの勢力であることが望ましかった。イラン(シャー時代)、イスラエルパキスタンなどがそれである。これらの副官たちにも責任は分与されるものの、警察本部は依然としてワシントンにあるということが暗黙のうちに了解されていた。

ノーム・チョムスキー中東 虚構の和平

ベトナム反戦運動を支持し『破綻するアメリカ 壊れゆく世界』など、米国内政治や国際政治においては、一般に左翼の立場に立って左翼を擁護しているチョムスキーの関心の中心は、もっぱら米国人のユダヤ人のイスラエル崇拝に向けられている。そのまさに米国でのアメリカ的言説の展開は、それ故に日本の反資本・反米左派にはジャスト・ミートなのではあるが、しかし、その米国中心の問題展開ばかりとなれば、ユダヤ人とアラブ人にはおざなりな態度ともなり、これがアラブ地域の問題であることが霞んでしまうこともしばしばある。
さて、そんなイスラエルユダヤを何故、米国は支持するのか?をさらっておく。
米国キリスト教徒の3分の一を占めているプロテスタントの多くは、聖書を字句通り解釈し、現実に存在しているユダヤ人がパレスチナで自分たちの国を再建することこそ、聖書の預言が成就する兆候のひとつだと信じている。プロテスタントの一派南部バプティスト(浸礼派)の敬虔な信者だったジミー・カーターが自伝で「このユダヤ人のために作られた国(イスラエル)は聖書の教えにのっとったものであり、神によって定められたものである」と述べているのはその典型。そこに加えて移民と開拓という米国の建国思想やフロンティア精神が、ディアスボラ・ユダヤ人を再結集させ新しい民主主義国家を築きあげるというシオニズム運動への親近感をいっそう増幅させてきた。
こうした傾向をさらに強めたのが、1970年代以降に米国で目立ち始めたエバンジェリカル(福音派)と呼ばれる、保守的なキリスト教グループの台頭である。ヒッピーやフリーセックスに代表された1960年代の「カウンター・カルチャー」への反作用として、米国社会が保守化傾向を強めたことや、かって「バイブル・ベルト」と呼ばれたようにキリスト教的な色彩が濃い南部バプティスト教会の信者であるカーターやクリントンが大統領に当選し、レーガンやブッシュは「モラル・マジョリティ」と呼ばれるようなキリスト教保守派からの強い支持を得ていた。
現在、イスラエルを最も支持しているエバンジェリカルは、イスラエルの成功を神の摂理の証明と見なし、1967年の第三次中東戦争イスラエルが圧勝したことは、救済へと向かっていく神意の現れと解釈している。こうした解釈を政治的なレベルにまで推し進めたのが「キリスト教シオニスト」たちだ。彼らはイスラエルを支持することこそキリスト教徒の義務と考えているようだ。

1979年の革命でイラン王政が倒されたことによって、中東の警察官としてのイスラエルの重要性は増大した。イランで軍事クーデターを起こそうとしたカーター大統領の特使ロバート・ユイサー将軍の試みが失敗した後、アメリカ、イスラエルサウジアラビア三者間で同盟を復活させようとした。サウジアラビアが資金を提供し、アメリカがイスラエル経由でイラン軍に武器を供給し、革命政府の転覆を図ろうというものだった。
そのころにはイスラエルアメリカへの従属関係は、他の理由から決定的なものになっていた。イスラエルアメリカやアジアでも副次的サービスを提供していたが、中南米で果たした役割はとくに重要だった。この地域では、おそろしく残忍な独裁指導者や殺人者たちにアメリカ政府が直接の支援を与えることは、国内の一般大衆からの反対や、そのような世論のムードを反映した議会の人権立法などによって阻止されていたからだ。カーター大統領も、また1980年代にはレーガン支持者たちも次第に、この役割を引き継いでくれる者としてイスラエルを頼りにするようになった。これは国際的なテロ・ネットワークの一環であり、こそには他にも台湾、イギリス、アルゼンチンのネオナチなどが含まれており、サウジアラビアが資金を供給することが多かった。イスラエルが武器開発に協力し、実際の戦闘状況における実験使用の機会を提供してくれることも、アメリカ政府にとってはしだいに魅力あるものになってきた。アメリカ艦隊への基地提供、武器の軍事配備、非常事態対応計画、共同訓練などの面においても、同じことがあてはまった。これらもまた、全体的な戦略構想の枠内のものであり、冷戦下の相互依存によるものだった。
イスラエルの役割は、「非ソビエト・シナリオ」─すなわち、「急進ナショナリズム」への対抗─において軍事介入に使える駒であるということであり、そのことによって「アメリカの選択肢の幅を広げている」ことにある、というベンジャミン・ネタニヤフの側近ドーリ・ゴールドの分析だ。

こうしたことは、ひとつの問を提起する─私たちの名高い「人権の重視」はどこへいったのか?中東のさまざまな役者たちに、人権はいったいどう割り振られているのだろう。ことは簡単だ。権利は、システムの持続への貢献度に応じて割り振られる。アメリカは、自明のこととして権利を持っている。イギリスは、忠実な攻撃犬であるかぎりは権利を持っている。「アラブの見せかけ」のメンバーは彼らが自国民を管理し、西側への富の流出を保障することができるかぎりは権利を持っている。
パレスチナ人はどうか?彼らには富はない。彼らには力はない。したがって、もっとも初歩的な外交術の原則に従って、彼らには権利が無い。これは2と2を足して4になるというような話だ。それどころか、彼らの権利勘定は負債ですらある。その理由は、彼らが家や土地を奪われ、迫害されていることが、中東各地で抗議と抵抗を誘発するからだ。
こうした観点からすれば、ここ30年程のアメリカの政策はきわめて単純に予測できるものだった。その基本的な要素は、これまでどおりの極端な拒絶主義(リジェクショニズム)である。私はこの言葉を、人種差別的にではなく適用し、旧パレスチナへの権利を争っている二つの勢力がお互いに相手方のネイションとしての権利を拒絶する人たちのことを指している。したがって、パレスチナ人のネイションとしての権利を拒絶する人たちは拒絶主義者である。そしてアメリカは、この30年間というもの、拒絶主義者たちの先頭に立ってきた。いわゆる「和平プロセス」はこの基本構造の延長戦上にあるのだ。

米国内で激しい反発・非難・糾弾をもたらす、そうしたチョムスキーの言動を、サイードは「アメリカのリベラルがこの30年間わがもの顔で歩いていた、床一面に敷き詰められたカーペットの隅を、チョムスキーが思いがけずめくってしまった」と称し、チョムスキーの務めは「イスラエルパレスチナにおける民衆運動が、いずれ生まる国際的な社会主義運動の支援を得て、望みを実現する時期が来るまで」ニ国民共存という解決への望みをつなぎ続けることにあると、その役割を見る。