情報の二者択一化と内輪に丸められることでの、問題の矮小化現象

社会がより多元化しアイデンティティの複合状態が一定の正当性を持って受け入れられ始めた結果、イスラエル側・パレスチナ側双方のエスニック・グループによる政治活動、いわゆるエスノ・ポリティクスが盛んになった。ただそれは、伝達される上でいろいろな意見の違いは捨象され、大変錯綜している情報も敵/見方という白か黒かな単純化図式の下に、遠隔地でキャンペーンが行われる。
特に日本では、ヨーロッパ〜ユダヤ教はもとより、アラブのことなんかこれっぽちも知ろうとしない今北産業なまま、ただセンセーショナルな映像を見て「親/反イスラエル」を声高に叫ぶ印象批評で消費してしまう向きは、ちょっとどうかとおもう。ガーヤットリー・スピヴァッグは日本とイスラエルを指して「ユーラシア大陸の両端にある二つの不条理」と称した。イスラエル建国時の日本は、五族共和な拡大アジア主義から一転して血統主義的な純日本人イデオロギー単一民族神話」でもって日本列島に貼り付いていたのだ。>id:hizzz:20080401
今ネット上でも呼びかけられている「親イスラエル企業へのボイコット」は、その実際のところは国際資本なそれらの企業に対してはへでもないことであるのに比べて、それが善意であってもボイコットに賛同するその多くは、単純な二項対立なイスラエル/パレスチナな発想が垣間見えていて、それがイスラエルには「反ユダヤ」メッセージを送っていることになっていること(ヨーロッパ・ユダヤ系は伝統的に金融を生業としてる者が比較的多い為、多国籍企業にも当然投資を行っている率が高い)、つまり「反イスラエル」ではあまりにアバウトすぎて、パフォーマティヴに彼らのホロコーストアイデンティティを強化してしまうループを助長している可能性があるのではないだろうか?
確かにイスラエル軍事行動としてのパレスチナ抑圧・惨殺は、イスラエル政府が糾弾される責務にある。その全身凍るようなかくも無残な不条理に対して「反対」メッセージを強く打ち建てたいという沸きあがる阻止衝動は十分共有するが、それはあくまでも反対運動側の手前勝手な事情にすぎない。上記でさんざん書いたとおり、また今回の選挙結果での組閣がどうなるか微妙であるように、政府そのものも所謂大イスラエル主義な一枚岩ではないのである。「反○○」という安易な二項対立でガチンコを押し戻そうとして、再反動でホロコーストアイデンティティを呼び起こし強化してしまわないためにも、もう少しイスラエル内部に食い込み、イデオロギーから解放された視点で純粋「特殊」から重層的「普通」に少しづつ引き戻していくのりしろの幅を作るポスト・シオニズム的キャンペーンが、周辺運動としても必要なのではないだろうか。

イスラエル文学賞エルサレム賞の受賞が決まった作家の村上春樹氏に対し、大阪市に拠点を置く非政府組織(NGO)「パレスチナの平和を考える会」がウェブサイトに掲載した公開書簡で「受賞はイスラエルの対パレスチナ政策を擁護することになる」として受賞辞退を求め、賛同者を集めている。
同賞は「社会における個人の自由の理念を表現した著作の筆者」に与えられる。書簡は、イスラエルパレスチナ自治区ガザで行った「虐殺や封鎖政策などはパレスチナ人の自由を抹殺する行為」だと指摘。村上氏の受賞により「イスラエルがあたかも自由を尊重している国であるかのようなイメージが流布される」と懸念を示している。

村上春樹氏に文学賞辞退を要求 エルサレム賞でNGO
http://www.47news.jp/CN/200902/CN2009021001000486.html

はっきりいって、イスラエル/パレスチナ問題とって、ユダヤパレスチナ人にとっても、日本人作家・村上春樹の受賞なんか、どーでもいいことではないだろうか。ただ日本にとっては、日本の作家が「イスラエル」の賞をボイコットすることによって、この問題に対する日本人=心情的パレスチナな自分たちのプレゼンスがたてばよい、またはパレスチナ問題がこの機に乗じて少しでもクローズアップされればよいという、たとえようもなく他力本願でしかないハナシを、他者たる村上春樹というビックネームを媒体として動かそうというパフォーマティヴな政治言動に過ぎない。それがよいとおもう者は、そういう政治信条として要求出せば宜しい。>http://0000000000.net/p-navi/info/column/200901271425.htm
それが伝わっているかどうかはともかく、報道によれば村上当人は授賞式に出席するようだが、その受賞スピーチも含め自律した作家活動(もしくは政治活動)として村上当人も又、勝手に考えてやればよいこととワタクシは考える。しかし、いくら文芸という発表行為は広くは政治に該当する原則とはいっても、好ましい例として挙げられているスーザン・ソンタグのような、常日頃から自らの思想信条を明らかにして時世に突っ込んだ政治的活動スタイルをとっている訳でもない村上には、当該問題への態度表明しなければならない作家活動上の必然性や信条はおそらくないだろうから、ちと筋ちがいか、とも。
現に、村上ファンや文芸者間でのこの受賞へのやり取りは、イスラエル/パレスチナに対する理解尺度をうんぬんするよりも、あくまでも村上に有利か不利か的評判問題として推移しているように見受けられる。そうであるなら、尚更どーでもいい。無論そうして行為されたことに関する批評は、そのスタンスが文芸にあろうが政治にあろうが表出自由にあるのも、これまた民主主義のひとつの営為ではある。
が、もしそれが「パレスチナの平和を考える」のではなく、そんな受賞是非という「媒体問題」にすり替わっている事上げ自体、複雑な遠隔地の問題を一から調べて各々で考えるより、身近な有名人の評判の賛同/反対メッセージに便乗した方がはるかに自己稼働効果が実感できうるという心理での代理消費活動となっている場合が多分にあるならば、それは結局は「イスラエルの人道犯罪」スルーに加担してしまっていることになってしまってる、のかもしれない。


●追記:てなわけで、授賞式で村上春樹は「ガザ攻撃では多くの非武装市民を含む1000人以上が命を落とした。受賞に来ることで、圧倒的な軍事力を使う政策を支持する印象を与えかねないと思ったが、欠席して何も言わないより話すことを選んだ」と出席理由を語った。どうやら同賞受賞是非論争は当人に伝わっており、十分熟慮してスピーチに臨んだようだ。自己テーマを「高くて固い壁と、それにぶつかって壊れる卵」という抽象的文学表現で語り、ガサ攻撃/非武装市民と共に今回の受賞是非報道=イスラエル/パレスチナ両陣営からどちらの政治スタンスかと突き付けられていたことも含められたかのような自己存在を、「ぶつかって壊れる卵」の<個>の立場に常に立つと表出した。ついで60年代にビアフラ内戦で飢餓難民が出たことに際したサルトルの「飢えた子に文学は必要か」を彷彿とさせる文学命題に際して、「壁の側に立つ小説家に何の価値があるだろうか。」と表現した。そして「制度がわたしたちを利用し、増殖するのを許してはならない。制度がわたしたちをつくったのでなく、わたしたちが制度をつくったのだ。」と、表層的な軍事闘争・武力衝突の背後にある「制度」のコントロール=積極介入による事態打開も「制度をつくったわたしたち」は可能である、これは単なる「嘆きの壁」的不条理*1ではないとも、スピーチは示唆しようとしたのではないだろうか。
村上春樹さんの講演要旨
http://www.chugoku-np.co.jp/NewsPack/CN2009021601000180_Detail.html
・Always on the side of the egg 全文
http://www.haaretz.com/hasen/spages/1064909.html
村上春樹スピーチ全文和訳
http://d.hatena.ne.jp/sho_ta/20090218
・常に卵の側に(ハアレツに寄せられたコメント)
http://anond.hatelabo.jp/20090218205723

今の宙ぶらりんなパレスチナの状態を「私たちは『百年の孤独』で描かれたマコンドの人々のようなものです。世界から多くの注目を浴びながら、いつもその外にいて、自分たち自身の未来を決める知的な参加者なのではないのです。参加しない理由など何一つないのにです。」というサイードは、今回村上春樹がスピーチ・プロットに選んだ「高くて固い壁と、それにぶつかって壊れる卵」=「制度対個人」を、生前こういった。

あらゆるものがパッケージに入れられ売り出される。これがネオリベラル市場経済の意味であり、それをグローバル化は世界に押し付けて、個人には異議申し立てや疑問視の余地がほとんど残されず、そのいっぽうで政府なり企業なりの大組織は多くの場合殆ど盲目ともいえる施策を追及し、大規模な環境破壊、深刻な遺伝子破壊、そして権力グループが無責任に利益を追及する可能性を生み出しつづけているのです。そのような文脈では知識人の役割とは対抗することであり、それは絶対に、そしておそらくどうしようもなく必要とされる役割だと思います。否定的なだけの愚かしい対抗のことではありません─それではだめです。そうでなく、対抗的であるということで、わたしがいわんとしているのは、ふるいにかけ判断し批判し選択することができること、その結果、選択と主体性とが個人へとはねかえってっくるようなありようなのです。現在とはべつのなにかの一部になること、つまり商業化された利害や営利的な目的をもたない共同体の一部になることは、重要です。これは達成するのが困難な目標です。しかし達成可能だと思っています。

エドワード・サイード収奪のポリティックス

また、かってノーム・チョムスキーも、「壁」の比喩をつかって、以下のようにいっている。

イスラエル-パレスチナでは)予測されたとおり暴力応酬のサイクルが一種の「部族(トライバル)戦争」の状態までエスカレートし、鋭敏な観察者には両方の社会が滅びる結果になる可能性が見えるようになっているのが現状だ。
イスラエル-パレスチナでは毎日のように悲痛な惨劇が起こり、そのたびに新たな巨礫が憎悪と恐怖、燃えさかる復讐の願望でできた「壁」に積み上げられる。けれども、その壁を突破するのに遅すぎるということはけっしてない。この毎日の苦しみを経験し、明日はもっとひどくなるたろうと予想する人々だけが、本気でこの使命に取りかかることができる。外にいる者たちにも、その道のりのけわしさを軽減するために大きな手助けをすることはできる。だが、それは、彼らが自分の果たしている役割と責任に進んで率直に立ち向かう用意ができてからの話である。

ノーム・チョムスキー中東 虚構の和平

と、いうことを鑑みてみると、ワタクシ的には村上のスピーチはなんとか無難に質されている政治マターもハズさない程度に纏めて文芸しときましたという印象で、そんなにネットで大絶賛されてるような感動までは、、、ちょっとそれウブすぎやしないか、と。

*1:近現代のユダヤvsアラブの武力衝突の始まりは、シオニストが聖地・エルサレム神殿を占領しようとしたきっかけで起こった1929年の暴動「嘆きの壁事件」である。反イスラエルな近視眼的には「壁」といったら「ガザの分離壁」なんだろうが、ガザを念頭に置いているなら尚更、ユダヤイスラムにとっての「壁」とは、第一義に聖地「嘆きの壁」、そこから始まっているのだという歴史・宗教的解釈が大前提にあることを、そこに異教徒が土足で踏み込まないようにしなければならないことも考慮しなければならないので、曖昧に含みをもたせたいいまわしを使ったものと推測する。