重層的アラブ社会に持ち込まれた国民国家

一般的には「ユダヤ人対アラブ人」という対立図式でイスラエル/パレスチナ「紛争」が表象されるが、ユダヤ人とアラブ人は本来的に別個の実体としてぱっきり別れて対立してるのではなく、そこが元々アラブの土地でもあって、お互い共存して生きてきている限り「アラブ系ユダヤ人」「ユダヤ系アラブ人」という融合存在(ミズラヒーム)もまた出来ていたからだ。だからこそ、ヨーロッパ・ユダヤアシュケナージ)とアラブ・ユダヤ(ミズラヒーム)という文化・階層対立がイスラエル内部に勃発する。また、パレスチナ人というのも、そもそもPLO創立者たちはクウェートレバノンの住民で、西岸地区住民はヨルダン人、ガザ地区住民はエジプト人、そしてイスラエル住民としてカテゴライズされているのである。その他のアラブ世界、アフリカ、ラテンアメリカ、ヨーロッパ、北アメリカ(約20万人)に、約220万人が離散していると見積もられている。
「モザイク社会」と称される中東地域は元々「地域概念」が希薄であった。オスマン帝国下のミッレト(宗教共同体)は、さまざまな人間集団の政治的対立を吸収する機能を果たしていたが、それは納税を条件に多くの宗教共同体に大幅な内部自治を与える保護制度であった。前近代のイスラム世界における伝統的統治システムは、住民を宗教・宗派の枠組みのなかで間接的に支配することをめざし、そこでは、一定領域において排他的な支配権を行使する支配権を想定していなかった。

中東住民は、その第一義的帰属意識を宗教・宗派に置いていたとしても、言語、生まれ故郷など、その他の文化要素に帰属意識をもっていなかったかというと、決してそうではない。宗教・宗派は、いわば体制化された住民構成、住民意識の枠組みであって、意識の深層心理のなかに沈殿した中東住民の帰属意識構造は、さまざまに価値観を異にする人間集団の混在からなる中東の社会構造を反映して、宗教・宗派のほか、血縁、地域などに基づく複合的なものであった。そして、このことを端的に示すのが、「民族」を指すアラビア語の語彙の豊富さである。すなわち、アラビア語には「民族」あるいは「国家」と訳すことができる言葉として、血縁・民族的概念であるカウム(Qawm)、地縁的概念であるワタン(Watan)、宗教的概念であるウンマ−ミッラ(Umma-Milla)、政治組織・単位をさす概念であるダウラ(Dawla)、心理的・情緒的同胞意識を示すバラド(Balad)などがあるのである。
そしてこれらの言葉それぞれは、中東の住民が帰属意識をもっている文化要素を示しているが、こうした複合的要素から構成される中東住民の帰属意識構造は、しばしば、アイデンティティ複合として説明される。
極言するならば、中東の住民にとって、国民国家は自らを帰属させる多くの枠組みの一つでしまない、ということである。
そのため、19世紀末以降、オスマン帝国の解体にともなって伝統的イスラム統治システムが放棄され、中東イスラム世界が、そのほとんどが住民の意識と関係なく、近代の歴史の展開のなかで、それも多くはヨーロッパ列強の思惑から、人口的に設定された国境をもつ国民国家群へと再編された時、多くの政治・社会問題が生じることになったことは、容易に想像がつく。
中東の三大民族のうち、トルコ民族、イラン民族がそれぞれ1つの統一国家を建設したのに対して、アラブ民族は、統一国家建設の動きが一部みられたものの、結果的には、現在のような多くの「国民国家」の建設へと向かわざるをえなかった。

加藤博「地域世界と国民国家アラブ」『国民国家を問う

そんな土壌に加えて、対アラブとの人口比率を高めようとした移民奨励による、ユダヤ教に非改宗な旧ソ連崩壊後の移民や、「かってユダヤ教徒だった」という歴史的理由でのエチオピア移民等のサブ・エスニック・グループが持ち込む生活文化が、逆にイスラエルにいっそう民族的多様性をもたらしているという。

そもそも「民主的世俗的国家」という理念が具体的に提起され発展していったのは、PLOによる1964年に国民憲章を68年に改訂する過程においてであった。一方では、アラブ・ナショナリズムから相対的に独立したパレスチナナショナリズムの表明として、他方では、ユダヤ人国家イスラエルの存在を当時まだ承認していなかったPLOが「48年占領地(イスラエル領のこと)」とそこに住むユダヤ人を何らかの形で含み込む国家理念の創設として「民主的世俗的国家」は謳われた。そこでは、「シオニズム運動以前からパレスチナにいるユダヤ人」を「パレスチナユダヤ人(アラブ人のユダヤ教徒)」として「国民」と認めるということや、さらに進んで「宗教にかかわりなく望むものは誰でも平等な国民として生存権をもつ」といったことが議論された。その意味でこの当時の「民主的世俗的パレスチナ国家」は、同時にイスラエル領とされていた地域をも含み込んだ「一つのパレスチナ」という含意であり、ある種の二民族共存国家、いわゆるバイナショナル国家であった。だが、この理念が現実味を帯びたことは一度もなく、圧倒的軍事力を持つイスラエル国家の存在を否定することができず、二国家分裂を前提とした独立論ばかりが公然と語られてきた。そして公式には、88年のパレスチナ民族会議における「パレスチナ国家独立宣言」において「1967年占領地からの撤退」をイスラエルに求めたことが、同時に「48年占領地のイスラエル領有」を認めたに等しく、その時点でパレスチナ側からの「一つのパレスチナ案」は終焉を迎える。

早尾貴紀ユダヤとイスラエルのあいだ―民族/国民のアポリア

本はさらに、イスラエルの反シオニスト民主的行動機構ヤコブ・ベン=エフラットの「シオニストの悪夢」を引いていう。寸断され蝕まれた領土しかもたず、国境も領海も領空も管轄化におけないパレスチナは、経済的に自立できず、結局はイスラエルに依存せざるをえない。イスラエルが占領を続ければ、アパルトヘイト体制にならざるをえず、いずれ占領下のパレスチナ人からは市民権の要求が出るし、民主主義を尊重する国際社会が、半数近い住民に市民権を与えない人種差別を永久に許すはずがないジレンマに至っている、と。
いや、それだからこそ、イスラエルは声高に「国家」としてのアイデンティティを、断固として打ち立てようとして右派=大イスラエル主義に結束して、軍事制圧をも見せつけることで、社会求心力を高めようとしたのだろう。

イスラエル選挙管理委員会は12日、総選挙の最終集計結果を発表し、中道のカディマが28議席を獲得し第1党を維持したことが明らかになった。右派のリクードは第1党に1議席及ばず、27議席。以下、極右のわが家イスラエルが15議席中道左派労働党が13議席などとなった。第2党となったリクードを中心とする右派勢力が、国会定数120議席過半数となる65議席を占めており、連立交渉の難航が懸念されている。

イスラエル総選挙、第1党はカディマ確定
http://jp.ibtimes.com/article/biznews/090213/29152.html

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パレスチナイスラム原理主義組織ハマスの幹部、オサマ・ハムダン氏は「ガザの本格停戦はイスラエル総選挙の結果次第」との認識を示した。右派リクードのネタニヤフ元首相が政権の主導権を握った場合、エジプトの仲介で進む停戦協議は「合意が難しくなる」と指摘する。

ハマス「停戦、選挙の結果次第」 イスラエル総選挙
http://www.nikkei.co.jp/news/kaigai/20090212AT2M1101V11022009.html