ヨーロッパの鏡像たるイスラエル

イスラエル=特殊としてのユダヤ教と、ヨーロッパ=普遍としてのカント主義の接点は、どこに見出されるのか。「ユダヤ教と、ドイツ哲学の本質としての観念論の歴史的頂点との親縁性、カントのいう契機との[普遍的法則の自律性、自由と義務といった]その基本概要を備えた、志聖性としてのカント主義との親縁性」をいうデリダは、コーエンがギリシャ哲学からキリスト教に通じるとされるロゴスにこの紐帯を求め、そしてコーエン自らがその役割を引き受けようとしていたことを指摘する。特殊であることにこそに威儀を見出しているのではなく、カント的普遍主義を経たうえでの「普遍性を備えた民族主義」。これが、ユダヤ人が伝統回帰ではなく、コスモポリタン進歩主義を持つユダヤ思想としてのシオニズムとなるという。
そんなライン上で、「文化シオニズムの大きな成果」とハンナ・アーレントが絶賛したヘブライ大学は、建国に先駆けて設立始動した。ヨーロッパの知・古典は、古代ヘブライ語を大幅にブラッシュアップして創作された「現代ヘブライ語」にのきなみ翻訳されていき、民族の「国語」文化の基盤となった。ナチから逃れるためにヨーロッパ・ユダヤ人はパレスチナに逃れ、ナチ的排外主義を否定するために文化シオニストらはヘブライ大学を設立し、普遍でリベラルな国家を目指したそのストーリィは、カント〜ドイツ観念論〜ナチズムの近代文化ラインと全く一緒なのはいうまでもない。
ヨーロッパの知識階級としても、同時代の国民国家国民意識を内面化していたユダヤ人は、自らのユダヤ民族意識を高めると同時に、反動としてヨーロッパの非ヨーロッパ反ユダヤ主義を育んでしまう。このような相関関係から生まれたシオニズム運動が、イスラエル建国とその軋轢に繋がる。

  1. 建国当初からイスラエルは一枚岩ではなく、複数の潮流が存在し、それが現在まで矛盾・対立を巻き起こして整理されていないこと。
  2. 1993年労働党政権イツハク・ラビン首相のイスラエル政府と、パレスチナ解放機構PLOが相互承認したパレスチナの暫定自治を段階的に進め、将来的には独立し二国家方式によって最終解決を図る方向性の確認「オスロ合意」(国連承認)が、今や殆ど破綻していること。
  3. 元来アラブ社会は、イスラームと政治行政単位はレイヤーの違う次元・アイデンティティに属している複合体であるのに、社会運営実体になじまない近代ヨーロッパ的1国民国家単位思想を、ヨーロッパと中心とした「国際社会」に持ち込まれ、他律的に「差異」をつけられたことが、周辺を含めた民族紛争を呼び起こしてしまうこと。
  4. 2006年パレスチナ評議会選挙での合法的「民意」結果、大勝したハマスとその党派主張「オスロ合意・イスラエル国家の否認」を、これまでPLOの中心であったファタハ政府に肩入れしてきた「オスロ合意」を基調とする国際社会が容認しないこと。

さっくり見てみれば、問題点はこの大きな4つにしぼられるのではないだろうか?
大体イスラエルは、憲法がいまだ制定されてない。なぜなら、憲法制定する為には国土と国民を規定しなければならなからだ。勝手に壁をこさえて領土ライン(といっても、現実にイスラエルの境に引かれているのは、「休戦ライン」)を引いてもそこに住まう人々にはそう簡単にラインは引けない。壁の内側に住んでいる非ユダヤな人々をどうするのか。「誰がユダヤ人か?」といったことはよく議論されているが、「誰がイスラエル国民か?」という問いに、当のシオニスト自身が答えを出しかねているからだ。>パレスチナ「分離」政策