「腐女子」コンフリクト

おおきく振りかぶって』の特異ジャンルに偏向したPOP記述を見て、かなりの違和感(激怒)を持ち「腐女子の矜持」をいうemifuwaさん。
http://d.hatena.ne.jp/emifuwa/20040728#p3
http://d.hatena.ne.jp/emifuwa/20040729#p4
http://d.hatena.ne.jp/emifuwa/20040730#p1
http://d.hatena.ne.jp/emifuwa/20040731#p1
http://d.hatena.ne.jp/emifuwa/20040810#p1
そのPOP否定的感覚に対し、「卑屈にならないで、もっと堂々としてなよ」「もうすこし「やおい」や「ボーイズ・ラブ」のポジティヴな側面をみてもよいのでは?」「気持ちはわかるけどさ、もっと気楽に、明るくできないの?」等、「腐女子」趣味に疑問と「内面を根拠にPOP糾弾するなら、(「腐女子」内面の)説明責任はある」と要求をなげかける伊藤剛さん
http://d.hatena.ne.jp/goito-mineral/20040816
http://d.hatena.ne.jp/goito-mineral/20040817
http://d.hatena.ne.jp/goito-mineral/20040818
それに対して「ホモフォビアや男子オタあるいは世間からの反発を恐れているわけではなくて、変則的な楽しみ方だと理解し、恥じらいこそも楽しみなので、恥じらいを持たなくてもいいのだという価値付けは意味がない」と反論する、urouro360さん。
http://d.hatena.ne.jp/urouro360/20040816
http://d.hatena.ne.jp/urouro360/20040817
http://d.hatena.ne.jp/urouro360/20040818

…あああ、またかよくらくら。以前にもこんなことがあった。
http://d.hatena.ne.jp/hizzz/20040329
http://d.hatena.ne.jp/hizzz/20040405
このときは「腐女子」ではなくて、もっと広い範囲で「やおいやジャニーズなどの女性のこのテの文化=女ヲタクを網羅する為に、当事者である女ヲタクが語るべき」という趣旨を巡ってであった。
発端の山下書店の店頭POPの是非を「腐女子」自任の方が問うたことに対し、伊藤さんが「腐女子」趣味の在り方/現れ方そのもの全体に石を投げている言及を繰返すことからPOP問題とは別のコンフリクトが起こった模様。

趣味のありかた

そもそも「やおい」や「腐女子」って、著作物とファンという関係性のライン上での幻想趣味の形態であって、思想や評論という作家創作行為ではない。当事者達もそれをよく解っているから、著作物への「愛」=リスペクトを第一に掲げて、その上で自分達の幻想/妄想を自由に展開しているのである。そういうことを密やかな楽しみという暗黙の規律ある世界の快楽=本道を共有してきたのが、「やおい」や「腐女子」の方々であろう。だから、ワタクシも過去にカキコしているように、そゆ暗黙の規律を破ることは、その世界を変えることになるので、伊藤さんが望むラディカルに明るくなった「やおい」や「腐女子」は、今の趣味形態と変わってくるであろう。趣味人と創作評論行為がごっちゃになってはいないであろうか。創作評論行為に対しては、伊藤さんの善意の忠告も有効であろう。無論、創作評論行為をしようとする「やおい」や「腐女子」趣味人もいるであろう。しかし、現実のリファー対象者である彼女達の多くは、第一に趣味人として自らをアイディンティファイしているのである。だから、urouro360さんは、「想像上の「腐女子」に対して呼びかけている」と考察される。
ワタクシは単なるヲチャーであって、「やおい」「腐女子」趣味はないが、しかしそれでも、幾つかの原作本と同人誌とサイト等の書込を読んだかぎりに於いて、彼女達の趣味とその棲み分けの規律は充分共感でき理解できる。そうした時、冒頭で「そんなに卑屈にならないで、もっと堂々としてなよ」と伊藤さんが記述されたことは、そうした趣味人に対してあまりにも軽率であった感が否めないと考える。しかし、ここでいくらヲチャーや現実の趣味当事者がアレコレいったところで、「定説」にはならず水掛け論になるばかりであろう。「やおい」自体、発生して20年程の月日がたちその形態も刻々と変化している(だからこそ「腐女子」というネーミングが新たに出てきている訳で)。石子順造*1迄動員して自説をたてる伊藤さんが「腐女子」趣味現状に納得理解を得るには、ハラさんがお書きになってるとおり、コミケ等で「腐女子」物の現物を御自分自身でフィールドワークして分析されるのが一番である。
[謹啓、伊藤剛様]参考の為の追憶
http://d.hatena.ne.jp/XQO/20040818
オタク論 腐女子論:期待
http://d.hatena.ne.jp/urouro360/20040818#kubiki

*1:引用された「少女でなければかけない男性」という作家作品論は、「やおい」や「腐女子」趣味とはまったく関係ない

マイナー趣味と世間

腐女子」趣味人にとっては大問題であるが、POP問題そのものはパンピーから見れば「そんなに目くじらたてることじゃないぢゃん」で終了するであろう。反感に物言いした伊藤さんも最初はそういう軽いノリであったように感じる。POPを書いた店員もウケ狙いの軽いノリだったであろう。それだけ、趣味の渦中と外部では落差があるということである。といって、自分達がマイノリティだから享受できないPOPに我慢するという必要もないし、POPターゲットとされた「腐女子」趣味的にダメなものをダメ出し表現する裁量権は充分に趣味人側にある。当事者である書店にメールなり手紙なりで一通り抗議すればいいことである。そしてこうしてうぢゃうぢゃ言ってるヲチャー等、ハナシの合わない者達に、なんだかんだ言われても無理に自説を通す為に無理に「付き合い」「内面を出す」必要はない。
原作が原作として確立してて始めて自由に受け手側で妄想に遊ぶように、主体は自立した個人であって始めて、マイナー趣味に存分に没頭したり、五月蝿いことをいう者達や、理解できない世間に対して、そういう違いを認めた他者としてクールに対応できうるのだけれど、「腐女子」側のそこいらへんのゆらぎが「腐女子」たらしめてるところでもあり、またそれをいともたやすくマジョリティに捕まえられるという構図に陥り感情的反発言語ばかりで表現されてしまうことが、「腐女子」が活きづらそうに安易に解釈されてしまうところでもある。
しかし、内面を言えとせまるのは、自慰の仕方やベットの中でのふるまいをカミングアウトしろというのと同じでそれは失礼である。露出狂とは正反対の「腐女子」なセックス・コンシャスとは相いれないことである。ヘテロでもゲイでもセックス・コンシャスというのはプライバシーに属する問題であり、それだから尚更「腐女子」趣味が世間に露出されてしまうのを、憂慮しているのであろう。>POP記述問題
ヘテロな異性間ではそうしたセックス・コンシャスを公然とカミングアウト要請は普通しないであろうし、したらセクシュアル・ハラスメントである。しかし、それがゲイやマイナーフェチ等、セクシュアル・マイノリティに対する興味が過ぎて、一線を越えてその他者の持つアイデンティティに対する尊厳やデリカシーのなさに、マジョリティを自明とする世間も自分も気がつかないことが多いんだよな。

ジェンダー問題

この問題で「男子オタのホモフォビア」を防波堤にするかしないかがポイントとなっているが、メタ視線を強調した「男性のオタとの関わり」を持ちだしたり「ヘテロセクシャル男性の視線を過剰に内面化してないかなー」(≒「腐女子」側の過剰反応?)と兆発的な言及をして論を結ぶという、むしろそういう方向(上部/下部構造)にハナシをひっぱっているのは伊藤さんの方に読める。なぜなら、「腐女子」を主題としながらもその記述には少しも「腐女子」側と同等の視線に立とうとする気配がみえないからだ。そうした相手側の事情を斟酌しないように見える論戦を張ったまま、「もっと楽に、自分に優しくしてあげてもいいんじゃないの」とか「もっときれいな言葉が使われたっていいじゃないか」とか「もっと気楽に、明るくできないの」というような「他者に対する意識的な感情のレヴェルでの挑発」」を繰り広げて自説補強行為を見せ付けられると、多くの「腐女子」は、自らのアイデンティティを守る為に沈黙し「悲しそうな顔をして、引き下がるしかありません」であろう。
確かに自らを「腐女子」というからには、セクシュアル・アイデンティティ及びセクシュアリティの問題は包摂して避けてとおれない。しかし、確実に「腐女子」趣味に向けられたPOP記述に対する是非という問題提起には、男性のみならずヘテロ女性や子供という社会への配慮が欠けると emifuwaさんは理由を上げられた中で言及されてるのであるから、「ヘテロセクシャル男性」と性別固定されたものではないであろう。

まなざし問題

何度も何度もこのサイトのあちこちでカキコしているのだが、見るものと見られるものとの関係性に鈍感なまま、メタ概念を振りかざして分析介入する「暴力」がある。>〈パーコ麺〉id:hizzz:20040328 オリエンタリズムエスニシティといったことにつらなる、一般マジョリティのマイノリティへの視線の落差、他者問題である。「儀礼的無関心id:hizzz:20031225から最近の「ぱど厨id:hizzz:20040619#p2迄、もうデジャヴ感満載でお腹いっぱいであるが、なぜこうしたことが相も変らず「善意」の名の元に繰返されるのであろうかねー。自分が「善意」で「正義」で「崇高」で「博識」なメタ概念思想にあるならば、他者への結果は問わない自己無謬性への慢心。目的は手段を正統化しない。これを逸脱して、感情のままに否定&論理排除でのお互いのラベリング合戦は、とうてい「議論」とは言えないし不毛でしかないであろう。