リサーチ方法の責任主体

id:hizzz:20040329, di:hizzz:20040405の「やおいやジャニーズなどの女性のこのテの文化=女ヲタクを網羅する為に、当事者である女ヲタクが語るべき」をめぐって話が続いている。

腐女子の自己言及 ARTIFACT
http://d.hatena.ne.jp/kanose/20040822#selfreference
内面語りと自己言及 地雷犬日記
http://diarynote.jp/d/38638/20040820.html
・内面を公衆の面前で語らせようとするのはプライバシー侵害
というのはid:hizzz:20040819での問題である。だから、「内面」以外の歴史や傾向について、当事者が語るべき」とするのは何の問題もないのか?といえば、それでも問題は残る。
・相手方に態度要求してる主体の立ち位置である。
加野瀬さんは8/22で「自己言及してくれると嬉しいなあと思っていた」と弱く表現されてるが、3/29の「女性オタク側から新しい切り口の提供をされることを期待しています」id:hizzz:comment?date=20040324#cにせよ、id:hizzz:20040329でカキコしたとおり、歴史や傾向を纏めたい「説明して欲しい」主体はダレだ?ってことが不問にされているから問題なのである。
最初の加野瀬さんの意見に異論を唱えたのは、地雷犬さんが考察されておられる「内面を語れ」という部分ではない。「参照できるようなドキュメント」を希望しているのは自分なのに、「女性に歴史化への欲求が薄いからかなーとも思ったりするんですが」という、他性特性にして、自己方法論を不問にしているからだ。id:hizzz:20040329
現に自己言及はネット上でもある。ただ全てを納得できないという受取側のリサーチ主体の問題であって、それを対象相手のせいにするような言及が問題なのである。
やおい」でも「腐女子」でも「女オタク」でも、社会運動やマス相手の商売してるわけでもなく、単なる趣味な人たちである。
id:urouro360:20040820#fujoで書かれているとおり、観察でも踏込んだ参与観察でも周到な準備はむろん、リサーチャー側の自明の文化からくる思い込みが偏向したリサーチをとってしまい、結果として「使えない」ものになる。>id:hizzz:20040516#p7
マーケティングなどでも、マイナースノッブサーチもよくやられ「かまやつ女」*1(苦笑)等いい加減なのも含めてレポートが山ほどでてるが、その際に「対象者の自己言及がナイからサーチできない」などというエクスキューズが理由づけされたなんてケースは、聞いたことがナイ。
これは別にセクシュアリティがらみの趣味だけでなく、何かを纏めようとする時、リサーチャーの方法論のクリエイティヴ欠落や怠慢による資料不足からくる考察不備を、リサーチ対象者の態度のせいにしてはいけないということである。>プロライター様

*1:サン毎の記事では「かまやつ女」の自己言及はされず、六条華の自己言及をもってして1ジャンル成立となっているが…

映像の原風景

VIDEOART CHANNEL vol29 香港−ソウル−東京 〜映像の原風景
http://www.vctokyo.org/j/channel/8channel.html
ビデオ・アートの上映会のおさそいうけたもので、ちょっくらおじゃました。これは、香港/ソウル/東京のそれぞれのビデオ・アート・グループ3団体の上映会である。それぞれの団体のカラーを越えて、お国ぶりというか映像アート&表現に対する意識の差がはっきり出てて大変面白かった。
〈公〉=政治言語への抵抗というオーソドックスなテーマと映像プロパガンダを信じる土着的な韓国:Forum A。デンとした個人主義をベースに徹底して〈個〉感覚追求し映像のダイナミズムでドライブする洗練された香港:Videotage。それに比べて日本:VIDEOART CENTOR Tokyoは、映像も観客も信じずテクにのめり込み自閉してる〈私〉神経症といった感じで、コンセプトは解るんだけど、作品に広がりが無くって、中途半端にユルかったりテク装飾過剰に走ったりして、なんだかフラフラした作品が多かった。完成度という点では一番低いが、なんだかその欧米評価基準に追い付け追い越せでスノッブ神経症的なオレ様なとこが、皮肉にも現代情報化社会=コンセプト志向という名の表象に囲まれ踊りつづける今の東京=田舎者の群れを現しているようで、噛みしめるものがあった。TVのスイッチをひねれば、コンセプトワーク/ビジュアライズ/構成力/完成度の全てに渡ってこれら「ビデオアート」作品よりも質の高いものが多種多様に得られるのだけれど…。
8/21に上映してないものも含めて、8/28に外苑前で行なわれる模様
http://www.vctokyo.org/j/channel/8cworks.html

ナマモノのルーツ

id:XQOさんでふれられてるナマモノ(生身を対象とした倒錯妄想)であるが、70年代英米ロックと商業漫画のクロスがあってパロディ漫画表現が広がったと思う。ターゲットが生情報が入りにくい外国ミュージシャンであることと、そうであるから人権コードその他気にならない(相手に察知されることは絶対ない)でいられるという条件の元、育まれていたものと推測する。
さて、それではロックと「倒錯妄想」はいつ結びついたのかといえば、西欧文化の中で黒人ブルースに憧れた白人というロック本来のもつベースがその芽を含んでいたのではないか。ハンブルグ時代のワイルドさを去勢したビートルズの世界的大ヒットなど。酒とドラッグと女というイメージの一方で、バイセクシュアルが強調されだした、60年代後期のサイケデリックムーブメントでそれは全面開花する。その流れは70年代に入ってグラムロックに色濃く引き継がれるが、サイケブームで解禁になったそれは、ハードロックやプログレッシブロックなどや、ボンテージやチェーンで武装しはじめたパンクロックにも共有される。
国内では、ミュージシャン&ローティ関係者と肉体関係を持つことを主眼としたグルーピー、共同体共有を目指す追っかけといったアクティブ派の他に、ミュージシャンを彼に夢見るミーハーの一角に、そうしたバイまたはゲイミュージシャンにのめり込むようになっていったファンが、自分もバンドをやることによって音楽と一体共有感を持つというバンド族のエッセンスを取り入れて、ミュージシャン同志の関係妄想に発展させていったのではないかと考える。
ビートルズにインタビューしたことが自慢の星加ルミ子が編集長の『ミュージックライフ』というのが70年代前後では国内最大のロック雑誌であり、それは、ミュージシャンのグラビア主体&軽い近況インタビューで構成されていた。その最後の方のページに見開きの読者コーナーがあり、読者イラストや、パロディ小話などの投稿が乗せられていた。その内容は、徐々にエスカレートしていく。『ミュージックライフ』はクイーンをいち早く取上げ、グラビアを連発し、クイーン人気に火がつくが、最初はベイシティ・ローラーズと同等の女性向けビジュアル・バンドとしてであった。それに味をしめたML編集部は、アメリカの美形金髪ロンゲ・アイドルグループとしてエンジェルをプッシュし、いきなり武道館公演をウドー(招聘元)とかますが、チケット売れずガラガラでこれはみごとに撃沈(苦笑)。
そうした70年代中期、ロックパロディ漫画といえば商業誌でメジャーなものに、青池保子『イヴの息子達』『エロイカより愛を込めて』や、鴨川つばめ『マカロニほうれんそう』が思い浮かぶが、そのパロディネタはそした読者コーナーでささやかれたものを共有している=解る人が見ればより一層笑えるというカタチで導入されている。
さてロックにはバンド族と別に、プログレを中心とした蘊蓄思想批評族がある。「ロック批評」を掲げた雑誌『ロッキング・オン』もこの頃創刊されたが、ROもこのナマモノのターゲットとなる。70年代後期には「陽一さんのもしもし編集室」という渋谷陽一編集長まわりの連中のパロディ妄想読者マンガ*1が連載されたのであるから。
そう、別にゲイでもバイでも美形でもなくてもホモソーシャルなところ(同質社会に於ける非対立調和関係id:hizzz:20040424#p2)常にネタになる=「攻×受」構造主義ということであろうかね。。。

*1:エグイ倒錯関係ではなくほのぼのとしたもの中心