積み木くずし

id:Ririka:20040907#p2さんのトコで、哲学の二大潮流、さらに科学主義への懐疑と「分析系と大陸系の分裂」がサックリと話題になっている。大陸系でもなんだか随分分派してお互いあだこだしてるみたいけどでも去年、脱構築デリダ&対話的理性ハーバマスという思考理念方法的にありえなぁ〜い!コンビ結成されて共同声明だされた(「われわれの戦後復興-ヨーロッパの再生」『世界』2003.8)*1りして。理想主義(アイデンティティ)を守るか守らないかって理念で構造積み木してるよりも、具体的な状況の中でアタッチメントする機能が必要だとはおもう。*2が、「西欧文明」という自らの立ち位置(方法論的〈個〉別動機)の歴史に真摯になればなる程に、大陸(EU)vs新興(米、他)(^^;という政治はつねについて回るんだろうなぁ。*3その政治意識にはりついた啓蒙ピラミッド(積み木)が、分析の解析の手を阻むことになるが、それを阻めば最近のハヤリの「マルチチュード」はスタティックなタコ壷の自由=全体的非流動性による不自由*4でしかナイとゆージレンマってことなのかな。

*1:共書で『テロルの時代と哲学の使命』がでてる。(未読)

*2:過去からさんざんその手の「神学論争」は差別/殺戮の正当性=植民地化/戦争に動員されてんだからねぇ。

*3:政治的存在になることが理念の実行的手法になるとゆー思想

*4:平たく言っちゃえばマルクス主義の限界ってことかな?

サイエンシフィック

フィクションかノンフィクションかって話題もid:svnseedsさん達との間でかわされてて、面白かったんだけど、「哲学」をフィクションとするのかノンフィクションとするのかは「目的」と「手段」のとらえ方(どっちに重心を置くか)で違ってきて、先の分析系/大陸系が分裂する原因になってると思う。世界を把握する統一理論を夢みたりするのであるが、その為の科学的論理思考が往々にして科学的ロンリー思考になってしまうのは、「目的」=理念=抽象性と「手段」=分析=実証性の間の整合性の問題だ。*1この両者の間で、抽象度の高いもの(文学創作)は「フィクション」となるであろうし、実用度の高いもの(How to)は「ノンフィクション」ではあるが、抽象的世界にスタンスを置くものは実証学問を抽象手中にしようとやっきになり、実証世界のものは抽象的表現で飾ろうとする。ま、どっちがいい悪いのハナシぢゃない。*2
そーいえば『生物科学』で「科学論は科学の敵なのか?」という特集が組まれてて、面白かったなー。*3
ワタクシが考えるのは「スジ」ってことで、その表現に思考のスジが通っているかいないか(整合性)ってことで、それがサイエンシフィックとか論理とかの「普遍」に繋がるものだと考えてる。いくらフィクションだからといったって、最低限のスジが通ってない世界を開陳されても、その世界に浸ることができないものね。表現の一回性しか考えないのが大抵の送り手の意識なんだろうけど、しかしトンデモ読みというカタチのそのスジの混乱ぶりを楽しむ文脈読みの楽しさは、方法論快楽として受け手(消費者)のクリエイティブである。その方法論(解釈)的快楽のひとつのカタチとして、「おたく」「やおい」「ネット(2ch)」な営みが発生してそれが表現側にフィートバックしてくというところが、今日的な表現文化の在り方なんだろうけど、そういう「なんでもアリ」事態に伝統正統的学問がおっついていかない。(だから、伊藤剛さんのおっしゃる「作家論でやおい腐女子を分析する」というのは、近代的クリエイティヴ方法論としては正統論だが、しかし消費行動というまさに現代的な在り方がすっぽり落ちてしまうと考えるのである)

*1:無論、「理念」と「実践」の乖離、んなこたぁ今更ワタクシがカキコする迄もなく、「間テクスト」とかのポスト・モダン的手法がさかんに思索されたんだけどぉ〜。

*2:svnseedsさんはトップダウンボトムアップのアプローチの違いを指摘された。演繹と帰納ってことだよね

*3:岩波の『科学』で、理研の戎崎俊一が、論理性を高める為に関係代名詞の使用と副詞句・節の後置をするという、日本語改造論を提唱してる。

方法論的〈個〉別動機

「哲学」「社会学」といいつつ表象面にとどまってデカイ顔をしつつおもいっきりフィクションというのがここ最近日本でのハヤリだけど、そんなものは山のような現実にバッサリしっぺ返しを食らって自業自得状態なんだろうな。いやだから、次はコレがブランニューだ!とばかりに、欧米発のニュータームに「転向」するということそのものが、方法論的〈個〉別動機としてどーよ?って、ヲチャーとしてはシラケる。多少なりともそゆこと(理念と方法の乖離)を了解してるひとが、なんとか自己の方法論的〈個〉別動機を持とうとして、言語分析のみで、様々な現場にアタッチメントして『当事者主権』をなんとか取り戻そうとしてるんだろうなぁ。それは解るけど、圧倒的な事象の前に、その方法ですら理念でしかないという事実に学究者は対峙しつづけているのだろうか。別に特別で特殊で深刻かつ深遠で高潔な自己動機(環境)を作るということではなく、言及する学究としての当事者のクリエイティブがある(「作家」「学者」「問題当事者=被害者」といった近代的スタンス以外の方法論)とはおもうのだが*1、門外漢のワタクシであるが特にそうした「現実」に言及しようとする学問&学際者の意見で、オリジンな〈個〉にあんまり価値をおいていないことが読み取れると、なんだかなぁ〜とダレてしまう。いや、それでいて要は「オレを認めろ」=淋しいオレ様って趣旨id:hizzz:20040904#p5なんだもん。ううぅ。
※演繹/帰納、理念/分析、なんであれ事象適応の結果によってその「論理」は検証されてはじめて論理立脚できうるもん(=ノンフィクション)、とワタクシは考える。んだけどそゆのはプラグマチックだの悪しき成果主義だのネオリベだ(出たよ>奥さん)ちゅーことで、アリストテレス伝来の三段論法積み木方式の厳格理論でねーのはダメつー唯一手段、コマンドラインプロトコル「お手続き論」で、抽象域をでない議論フローチャートに「論理」を押し込める向きが結構いるんだよなぁ。*2しかし論理(アイディア)が地(事象)につかないイリュージョン状態(事象適応されることなき一回性論理(いいっぱなし)は文学/芸術=フィクション)は、普遍的に論理考察(構造・機能解析)する必要ねーぢゃんと思って「為にする論理/議論」って散々ゆーとるのら。

*1:言語による論理思考と感情思考?の他に、言語を使わないパターン認識によるイメージ思考(数学でいう「群論」のようなこと)は自他に認知されてないダケで、主に実践的分野で言語よりも広く使われているとおもうんだけど

*2:カタチとして演繹論法をとってたとしても、あらかじめ出さなければならない答えが唯一無二のもので最初からあるなら、それって帰納ぢゃんとおもうんだけどぉ…

〈個〉

…てなコトをカキコしたり言ったりすると、近代的〈個〉というものをストレートに理念化しすぎだとか言われるのがオチなんだけどね。(それでハナシはいつも〈私〉〈個〉〈公〉関連をしつこく巡らざるを得ない)「だから、日本にはアートは存在しない」といいきって終わりにするというのもひとつの手ではあるが、そういうラインでハナシをするなら、アートどころか学問も文化も存在しない「野蛮」って…だぁ〜れかさんの説になってしまうよな。
説=理念はそれで良いだろう。それなりに整合性もとれてんだから。しかし、実際、この地に活きるワタクシは、そーいわれて、どーすんだ?
1.正統文明的文化資本を探求
2.動物的文化資本を勉学
3.エモーショナルに同調
4.篭る
5.降りてダレる
現在とられている方法は、ま、こんなトコか。

あ〜、果てしない。線路はつづくよドコまでも、とゆーことで、ダラダラかいた割にいつにもましてまとまらないのであった。(^^;;;;<コラコラ