ファンシー&ヤンキー

ファム・ファタル(Femme Fatale)という言い方がある。フランス語で、「宿命の女」とか「魔性の女」と称されるモン。男をまどわし破滅にみちびく女、といったところか。19世紀ロマン文学で盛んに多用されたモチーフでもある。代表格は、なんといってもオスカー・ワイルドの『サロメ』。

踊る無邪気

サロメ』の元は、福音書マルコ伝。洗礼者ヨハネヘロデ王の結婚を不義として咎めた為に捕まっている。王の誕生祝いの宴席でヘロディアの娘(サロメ)が踊り客が喜んだ。彼女はその褒美を王にねだる内容を母親に訊ねたら「洗礼者ヨハネの首を」と母親がいい、それを王に言う「今すぐに、洗礼者ヨハネの首を盆にのせていただきとうございます」。
その「盆にのった洗礼者ヨハネの首」と「踊る女」というシチュエーションは、いたく人の想像力をかき立てたとみえて、中世から沢山の絵画となっている。そしてその「舞う女」は、大抵「少女」なのである。母親づれでしかも母親の意志を伝達してるというハナシの内容に従えば、このばあいサロメは少女が順当であろう。
ただ、この母の意思→王に褒美をおねだりするにあたって、ナゼカ要求がエスカレートしてるのである。母親は、単に「首を所望」したのに、それが王につたえた時には「盆にのった首」ってことになってるのだから、伝言ゲームの不可思議な飛躍がある。「盆」どっから出たんだぁ?そこはマルコ伝にはなにも書かれてはいない。が、ま、しかし、そこが、少女の無垢と生首の対比、少女の無垢な残酷そのものが萌えポイントであろうか。

求愛される首

元はそれだけのことが、ワイルドの手にかかると「いとしいヨカナーン(洗礼者ヨハネ)」と生首に語りかけ愛撫するハナシと転じる。そしてその語りかける主は、少女ではない。無垢なんかではない、反対の磁力をもった女である。どうしてそうなったのか。
問題は、褒美に「首」をねだる母親、こっちの方である。そしてワイルドは首を切られるヨハネに自分軸を置いてたに違いない。そしてマルコ伝は「盆にのった首」が王の前に到着してどうしたのか書かれていない。娘が盆に乗せてはこんだという記述もない。それは画家たちが作り出した。そしてそれをワイルドは「求愛され愛撫される首」と拡大したのだ。
愛撫される首は、しかし、その切り取られた身体と共に、一切を断絶している。それが故に一層、聖なるものに近づく。モローの絵では、首は盆に乗ってなくて、宙に浮いて光り輝いてる。栄光ある破滅、それこそが、もっとも萌える瞬間。*1
そして、サロメは見かねたヘロデ王に殺されてワイルドのハナシは終了。

*1:モロー以前でも、サロメのいない「(盆にのった)ヨハネの首」だけをモチーフとした絵画が沢山描かれている。

魔性の女

さて、そうなると、いよいよサロメは「無垢な少女」ぢゃハナシはどうにも落着かない。少女ぢゃあ性愛を予感させてもそれを織りなすことは無理だものね。その少女と母親が合体するとどうであろう。ここに最強の女のカタチが出来上がる。たとえ首でも欲する貪欲な性愛の無邪気。「魔性の女」というともっと年上の女のように感じるが、どうやらワイルドはサロメを14歳位に設定していた模様。…てことはロリータそのものなのである。ナコボフ『ロリータ』でも、萌えポイントとして、少女にそんな矛盾する2面性を意味付与しまくっている。
そして、それは破滅して初めて完結する。なにが完結するのか、といえば「求愛される首」=精神の神聖、そういうものの持ち主の自己愛。そう考えると、同性愛者だったワイルドが、ファム・ファタルを完成させた理由づけが出来るんではないだろうか。
もちろん現実の生身の女は、そんな都合良くエロスを発揮して都合良く破滅してってなんかくれない。