モテVS非モテ

「モテVS非モテ」をめぐって、ブログ上での男女側双方の意見がすれちがい、なんだか迷走している。
「オタクでも『電車男』のように外見をかえればモテた→女は顔で男(人格)を判断」という(男性側)解釈に対して、女性側として「オタク=キモいからモテないというのではない→もっと女性の話しを男性は聞くべきだ」という意見が提示された。

女性の知的コンプレックスが減退し、「一緒にいて面白い人」「女にバカであることを期待しない人、もしくは一緒にバカをやってくれる人」がモテる時代が到来した。

堀越英美『ユリイカ 2005年8月増刊号 総特集 オタクvsサブカル! 1991-2005ポップカルチャー全史』



男子はもっと女子の話に耳を傾ければきっとずっとモテると思う。モテ/非モテは相手のことを想像できるかできないかが鍵ですよ。

http://d.hatena.ne.jp/amiyoshida/20050815/1124102773



私は女性の男性に対する見方って、総合評価だと思うんですよ。「顔」「金」「身長」「性格」「知性」「セックス」とか色々項目があるとして(あくまで例えですよ)、一つが低くても他が高ければ全然挽回可能。もちろん女性によって基準は違うでしょうけど、顔が悪くてもモテる男性なんていくらでもいるじゃないですか。その点女性は、「顔」「スタイル」「若さ」がクリアされてないと、他の項目でいくら稼いでもダメなんですけどね。

http://d.hatena.ne.jp/pippi/20050820



「どれだけ自分に時間や手間をかけてくれるか」ということにマイッチャウ女子もいるわけで、そういう趣向の女子は顔とか趣味とかで人を侮蔑したり差別したりはしないわけですよ

http://d.hatena.ne.jp/amiyoshida/20050822/1124706061


それに対し「叩いてOK、あるいは御しやすしと見た対象をダシににして、身内に媚びるようなやり方でしか世渡りできない卑怯者」というハゲシー反発が。

「男子はもっと女子の話に耳を傾ければきっとずっとモテると思う」とか言ってるヤツは、まず、弱者を食い物にしようとしてる姑息なリフォーム詐欺http://d.hatena.ne.jp/yukihonda/20050713だと思った方がいい。
昔から「ホットドックプレス」とか必死に読んじゃうようなヤツが、モテた試しはないってこと。女子の話」じゃなく、「女子の欲」をこそ直視すべし(笑)

http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20050821


其処まで青筋たってはいないものの「「外見は関係ない」っていうのが嘘だから、反発されている」http://d.hatena.ne.jp/Kowalski/20050817#c1124366181 と、「オタクでも『電車男』のように外見をかえてモテた→女は中身より外見」自己体験を誇るid:Masao_hateさん。以降「話しを聞く」提案がずれ「外見or中身」に論点がなる。
この外見/中身という二項対立軸に対しては、以下の反論がなされる。

ファッションチェックはファッションセンスを通じて内面(人格)を評価しようということではなくて、最低限外見に気を遣っているかどうか、もっと言えば他人の視線を意識して行動しているかどうかを見ているのではないでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/rna/20050822#p1


内面よりも(コミュニケーション行動)意識の問題というのに対しMasao_hateさんは、当初の all or nothing 的論調からは微妙に軌道修正しつつも、内面「人格」重視を主張されてる模様。

みなさんがいう「内面」っていうのは、「テクニック」を身につける気があるか否かという「社会性」であって、それは社会を生きるための「処世術」であって、それはとても大切なことだけど、でもやっぱり「人格」じゃないよね。

http://d.hatena.ne.jp/Masao_hate/20050823


一見では「人格」は見えないから、「「人格」は、実際に長く・親密に付き合ってみないと、本当のところは絶対にわからない」という主旨らしい。でも「長く・親密に付きあう」ことって、最初の「もっと女子の話に耳を傾ければ…」ってこととやることは同じ提案なのでわ。。。
最も、「口では外見を過小評価し、実際には過大評価している女性」に意義申立てて、「(付きあう女性は)「顔」「スタイル」「若さ」がクリアされてないとダメ」な非モテ男性のセックスコンシャスにほうかむりしたままの人格重視説では、普遍的説得力はない。
いやはや、なんでこんなに噛みあわないかといえば、付きあう動機のプライオリティという点ではないのか。先の女性意見が、「どう付きあって行くか」付きあう内容重視にあるのに対して、後の男性意見は「付きあうきっかけ」見た目重視という視点の違いにあるからでないかな。付きあい方を想定した「ふるまい」にポイントを置けと言っているのに、いや、そもそも良いかもしれない内面そのものを考慮しないからナニも始まらないという、たまごが先かにわとりが先かみたいなハナシになって噛みあわない。
「外見で中身を判断するのは、フェアぢゃない」vs「本人自身でも判らない抽象的な中身なんか、あてに出来ない」もしくは、「とりあえず付きあえさえすればいい」vs「付きあってソンしたくない」ってことが、ホントのトコにあり、そこから条件づけしてくから、視点が違うというだけぢゃあないのかな。
でー、この「中身で判断しろ」スジでいった場合、肝心貫目の中身がナイ=人格者でない者は、サイアク決定なんだが、「とりあえず中身を判る為に付きあえ」といっていくばくかの関係を持てさえすれば、後は野となれ山となれ、それでいーと。。。
まー、こんな風に「俺の、俺の、俺のハ・ナ・シを聞けぇえええ〜!」って、双方でやってたら、繋がるモンも繋がらない。だから、そこいら中そんな状況、それだからこそ、そこで漁夫の利を納めるのはイケメンでも勝ち組でもない「理不尽にある自分に手間ひまをかけてくれるひと」って、実はきっかけパタ〜ンの王道。機を見るに敏、絡まれてるとこを助けた『電車男』と同じなんだけどね。
そうそう、男性編集者が大半をこしらえてる女性誌や「ホットドックプレス」なんかいくらスミ迄読んマネしても、そこには男の欲望する都合のいい女の欲=妄想しか書かれてない。AVと同じく、男のツボは男が一番判ってるって構図に乗ってるだけだから、当然異性のツボには通じなくてモテないであろう。

スノッブ化したオタク

その内容はともかく、自分の中身を理解されることが一番大事ということは、「趣味は俺」ってことにもなるんだが、そもそも、そゆアイデンティファイをしつつ、モテ非モテという三次元他者異者の目を気にしてるのは、果して二次元萌えが全てといいはる「オタク」たりえるのか?という根本的な疑惑がある。「自分」とか「異性」にはまったく興味も関心もしめさず、ひたすら「好きな○○と同化したい人たち」(id:hizzz:20031120#p1)がオタクと命名されたのであり、そゆ青春特有の主体(自己承認)問題をスルーしまくるからこそ「キモい」といわれてたのではないだろうか。だから元祖オタク(第一世代)にはサブカルスノッブカルチャー)認知はあれど、自分の非関心領域=世間に対しての関心も敵対心もなかったのである。当然「モテ非モテ」価値観が自己プライオリティの上位にくることもない。が、しかし、オタクも第三世代まで裾野がひろがってくると、労せずとも関心領域に簡単にハマれるオタクの場は開拓されジャンル化して拡がっているし、オタク有名文化人やオタクキャラの登場で世間のオタク認知度も上がり、サブカル市場の表に出始めたライトなオタクが急増したのではないか。だからこそ、かっこつけで浅い連中なんかくだらないvsダサいあいつらと一緒にして欲しくない「オタクvsサブカル」的図式が90年代からいわれはじめる。
ま、ハイカルチャーがタコ壺スノッブ化してサブカルチャーサブカルとしてメインとなる過程で、従来サブカルオタクはライト化してオタク度が下がりメジャーとなり、サブカルスノッブと僅差になっていったということは、アニメなどを共有すると同時に、「「○○に着目した<カリスマな>オレ」が好きな人たち」(id:hizzz:20031120#p5)気分はスノッブ優越感をも自意識として共有しはじめたのではないか。そして後に残された明確な差別化としては、主体の確立問題というベタな青春。それが「モテ非モテ」というお題で宿題状態となったのではないだろうか。
「趣味は俺」を意識化したからこそキモ/ダサをひきずり、無粋な他者性まなざしを払拭して元の「好きな○○と同化する」楽園を構築したいオタクサイドとしては、その三次元他者異者を頑強にねじ伏せ排除することで「俺」の輪郭を見ない(=見るな)という未分化自己形成方法の『電波男』論=オタク原点回帰でバリアをはる。それは逆スノップそのものの論理(id:hizzz:20031120#p6)で、そんなに目新しいものではない。が、「俺」自意識問題は、オタク宣言集団の中では霧散してるように見えても、外から見ればそれは集団強化されてるのすぎない。

なかよし

さてさてそんな価値観の違いがあるダケで、それを御互いに歩み寄るという方法論を放棄するなら、後は自己価値を高めることで相手を粉砕するという方法論が自動的にクローズアップされる(『電波男』がその方式)。それは、自分のライフスタイルと相談して好きにすればいいのだ。それを過剰に外部承認もとめようとしだすからコンフリクトがおこる。
この論争モドキでは、「人格」なんて言葉まで飛び出してどうもそれが最上であるがごとき扱いでまたもやみんなの好きな人格論争になりそうなのだが、しかし、他者を占有したいという恋愛エロス(快楽)の根源は人格っていうのだろうか。ウソでー。いやそうだというならそれは「自己(人格)承認」ていう欲望だろう。
モテ非モテという価値観が、「一般的に好ましくおもわれる人物」=イケメンという相対評価で計られるのに対して、相思相愛を目指す恋愛は、「特別なあなた」という絶対差別化した個人的価値観が作動する、偏差値的/普遍的な相対価値基準とは極北にあるものだ。でー、どんなに狂う程モテても、一番モテたいと想う対象者にソデにされれば、意味がナイ。どんなにキモくてどーしようもない人格破綻者でも、愛してしまえば、イケメンなのである。そもそも「恋愛経験」することが至上の価値であるという意識が双方あるから、モテ非モテ価値観でこんなに「傷つく性」としてピリピリするんだろう*1

キモメンが、「俺は男だ」と宣言して池鶴関係を乗り越えようとすると、その瞬間に女がドン引きして逃げてゆく

本田透『電波男』

ニーズとウオンツの違い。いってしまえば、「俺は男だ」自己愛にエクスタシーを感じる者と、感じない者の不毛劇。性別問わず自己愛に一生懸命なものは、まずもって他者の、求める自己愛が一致する者同士意外のハナシは、まず、聞かない
自己のアイデンティティと恋愛のプライオリティに「俺は男だ」を掲げるひとは、外見/中身論争でいうと、「俺は男だ」ということが重要な中身なのであろう。そうしてそれに賛同する男性が多い。対して女性は「私は女だ」とアイデンティファイしてるかといえば、そういうひとは少ないようだ*2。 前回カキコしたF1層でもある(「顔」「スタイル」「若さ」をクリアした)ギャルid:hizzz:20050828 のように極端でなくても、外見をくるくる変える女性は年齢関係なくよくみかける。外見だけでなしに、カレシが変わると趣味から友人関係からふるまい全てを総とっかえする女性もよく拝見する。その反対に付きあうカノジョが変わるとふるまいを総とっかえする男性は、、、殆ど見かけない。
そもそも外見/中身に自己同一性を自他共に求めない者だからこそ、不利益きわまりない「俺は男だ」に拘って進退きわまっている状態が「ありえなぁ〜い」とキモくなるのであろう。そして自己同一性に全存在を託す者だからこそ、そうでない「変わり身の速さ」に接触の手掛かり=個体同一性を喪失し、女という抽象全体カテゴリーにすがるのであろう。

女性不在のまま、「女はオタクが嫌いだ!女は顔で男を判断する!」と決めつけて悲観してる男性が多い気がしたので、「そんな事ないってば」って言ってあげたかった。女にも非モテはいるんだから、仲良くしようよとも言いたかった。でもそれこそが、一番やっちゃいけない事だったんですね…。
はぁ…疲れた…。基本的にみんなと仲良くしたいから、こういうのほんとイヤ。

http://d.hatena.ne.jp/pippi/20050820


「基本的にみんなと仲良くしたい」とおっしゃるpippiさんと、それにドン引きして攻撃する男性とで、実は守ろうとするトコは、多分同じなのであろう。「正しい恋愛」id:hizzz:20040705#p3 にもカキコしたのとダブるが、遠くの繋がるか繋がらないか判らない関係に一喜一憂してるよりも、近くの非モテ同質軍団を重視しようとする点では。ただ、そこは異性という異質(判りあえない関係)は排除し、建前シールドをはりめぐらすことで初めて、(自己中だろうが)安らぎの空間となるトコだったりするからなー。
気持ちは判るが、いや、ねー、恋愛は「みんな仲良く」ぢゃなくって、特定独占という占有権争いの面があるから、相容れない。エロとエゴ抜きで語られる恋愛のウソくささ*3っていうのは多分にあるしなー。
恋愛観も含めてそれは集団でなかよしなんぢゃあなくって、たとえ自己愛でもキモ愛でもひとそれぞれ自分のペースで営んでいればいいもんなんだよ。だからこの手のハナシを恋愛談義としてでなく、 all or nothing的恋愛価値観論決の同一共有を求めてるとしたら、固有性を無視した妙なものに(天皇制みたく)なる。ひとの間には、固有性というディス・コミュニケーションがあるからこそ、関係を繋ぐことって刺激的で面白かったりもするんだけどね。

*1:丁度90年代のAC女性がそうだったように世間的価値を殊更に内面価値化して「傷つく」と主張する男性が出てきたのとは別に、「傷つける性」として自らをアイデンティファイする男性オタクも登場しだした。これはひたすら脳化してたオタク自身の身体性の発見ということなのか?それとも脳を肥大化させて三次元(異性)身体を取り込こもうとする「人類補完計画」な自己完結欲望の結果なのか?>id:genesis:20050728/p1

*2:http://www14.big.or.jp/~onmars/index.cgi?date=2005.08.03

*3:「純愛」だの「純潔」だののススメは、一見正しく美しそうでいて実はすさまじく一方的な御都合主義エゴ丸出しっていうケースが殆ど。

積み木崩し

…さて、かくして?all or nothingで恋愛欲望をぶっとばすことによって非モテオタク同質軍団のヒーローと変身した電波男・本田さんに対して、竹熊健太郎さんは、老婆心ながら心配なさっている。

なによりも人間は歳をとるので、40ぐらいになれば多少は気弱になることもあるかもしれない。そういうときに、まるで脳内から抜け出たような、一回り以上も年下のロリ系巨乳ギャルが、押しかけ女房のようにあなたの部屋に転がり込んできたら、本田君はどうする?

竹熊健太郎
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2005/03/post_14.html


わっはははははははははははは。あるある。そゆ一途/純潔になにかあると勘違いして自分試しにつっこんでく者は、少数派ながらいるざんす*1。カキコしてきたように青春な「俺」問題は同質軍団の中で目くらましなまま先送りされてるダケだから、パワーおちた時にぶすぶすと不完全燃焼始める。そうして、まぢ、そうやって、積み木崩しに堕ちて抜け殻にされた中高年は、いぱーい(大苦笑)。しかし、最も「少女」が毛嫌いするヲヤヂのキモさって、そゆトコなんだから、ロマンスは勘違いが判り次第、霧散終了なのだけどね。。。
…でも、結果それでも其処までのプロセスが幸せなら、双方いーってことよ。そこにエロスを感じ惹かれる自己ならば、なんだかんだ言ってもそれは理想の積重ねぢゃなくて、自己の折畳み方にあるってことなので。「男は顔より中身」と声高に宣言するコトがそもそも、自己の折畳みの一歩(=外見廃棄)な訳だから。いやそんなロリ系巨乳ギャルと一生縁がなくても、自己論理の正しさを貫き通した自己同一性で、ほんとの欲望はともかくも、この論理「ヲヤヂへの道」に乗れば、取りあえずどっちころんでもヲヤヂ王国は万全なり〜。いずこも我も同類項、赤ちょうちんでクダ巻き合おう。ちゃんちゃん。

*1:それならなんで若者に特攻しないのかといえば、尻軽兄ちゃんよりなにかと世間的しがらみのある鈍重ヲヤヂの方が後々のこと(撤退)を考えると安全パイだから、つっこみやすいのである。無論この逆も真なり(笑)