オタク is Dead

岡田斗司夫の「オタク・イズ・デッド」発言と反応 途中まとめ
http://d.hatena.ne.jp/sirouto2/20060527

岡田斗司夫が、ロフトプラスワンのイベで「おたくは死んだ」と声をつまらせて泣いたという話題。
「○○は死んだ」というのは、それをアイデンテファイしてる人々にとっては衝撃的かもしれないが、論パターンとしては結構ありがちで、その内誰かがそゆことを言うだろうということを、言ったなという感想をワタクシは持つ。今迄にいろんなカルチャーが死んできた宣言だされたけど、文化の趨勢という点でオタクな営み文化も又、同様の変遷を免れない。と、いうか、いやぁ〜、ねぇ、ワタクシもこゆことに対してはさんざんカキコしてきたから今更感はあるけど、この岡田オタク感はこれまでの岡田文脈を考えれば理解できる。
死んだのは、オタクでなくて第一世代おたくとか、オタキングそのものだとかということが言われている。ま、なんであれ文化=政治な拡大路線はそろそろ無効になったということであろう。
ここで岡田さんはおたく*1定義を「好きなものを自分で決められる知性と偏見に屈しない精神力」としているが、興味対象への語りだけでなしに「おたくの定義だけで何時間も議論できるひと」という定義が過去さんざんいわれてきた。
どちらにしても、そういうことが真ならば、誰かが死のうが生きようがそれとは関係なく、自己の営みを構築していくであろう。萌えブームを嫌って早々にアキバを脱出したオタクも現にいたように、もともとオタク(もサブカルも)はメインカルチャーが志向するアイデンティティの結晶化などではなく、状態=方法論であった筈なのだから。
サブカルの変遷 id:hizzz:20040109
ばれた id:hizzz:20040319#p3
オタという自由 id:hizzz:20040329
オタ的存在 id:hizzz:20040405
自己実現山脈 id:hizzz:20050911
変化するアキバ id:hizzz:20051002
スタイルの攻防 id:hizzz:20060404

*1:「おたく」というひらがな名称に強いこだわりを持つのが大塚英志

オタクと世界の関係の仕方

ネット上の書込みに対する岡田コメントで、非常に興味深い指摘がなされる。

重要な本論は「貴族→エリート→アイデンティティ」という流れの変化そのものであり、問題の本質は「共通文化への忠誠心を含む、同族意識の淡泊化」なんだけどね。インディアンや在日韓国人の例を出して説明したんだけど、そのところをレポートした人がほとんどいないのが残念。でも、あの部分こそが「なぜオタクが死んだ、といえるのか」のキモのはずだよ。

岡田斗司夫
http://putikuri.way-nifty.com/blog/2006/05/post_78fa.html#comments

これが重要に思われないでレポート脱落してしまったというトコに、あらためて世代意識の差を感じる。
第一世代(古参)と最近世代(若手)の一番の違いは、点在する様々なミクロをトライブさせマクロに繋げて世界観を作るかな古参に対して、いかに数多ある世界観にハマるミクロとなるかという若手の方法論の差なのではないだろうか。
ジャンル情報を10知ってるとか1000知ってるとかいうのは、いくらその数を誇ってもジャンル外にとってはあまり意味をもたないミクロ情報にしかすぎない。そのミクロ情報がジャンル外情報と結びつき、パースペクティブな深みと奥行きがついて初めて独自の世界観が立ち上がるのではないだろうか。
しかし、最近はもっぱらそうして切り取ったミクロのメタゲームを繰り返すことに夢中で、その切り取った元の系譜/文脈と切り取った後別の系譜に接続したというとこに関心が行かない為、「インディアンや在日韓国人の例」そゆトコ迄、世界をひろげられない。

岡田氏の定義するような第1世代・第2世代オタクが「萌え」に興味を持ったら、「萌え」とは何ぞや?で熱い議論を交わしていたことでしょう。けれど、第3世代オタクは「萌え」的なモノを見つけ出す能力に長けているものの、「萌え」の文脈的な事を語らない。「萌え」の文脈の奥行を知ろうとせず、本当にただひたすら消費するだけ。例えて言えば、カップラーメンだけを食べてラーメン通を自称しているようなもの。

KT
http://d.hatena.ne.jp/kasindou/comment?date=20060525#c

要はそゆことだろう。
オタ同士のコミュニケーションとしては、他者オタの世界観に基づく情報を取り込んで、自己世界観のパースペクティブを広げるという志向があるとはおもうが、最近の『萌える男』とか「文化系女子」とかの話題をヲチすると、性別関係なく、ジャンル情報1000はおろか2〜3のもので脊髄反射的コメント、自己半径数メートルのネタの外はアウトオブ眼中といった体たらくで、兎に角内容がミクロ&自己吐露すぎて、情報共有に至らず、至るとことでぷつぷつとそこで世界観が切れているということはありはしないだろうか。だからこそ、またかぁ〜というデジャヴ感な論争モドキがセックスコンシャスとジェンダーアイデンティティいう背景を団子状態にした男女差異論議として*1凝りもせず繰替えされる、永遠の祝祭。無論、ラノベとか涼宮ハルヒ萌え語りするブログでオタネタをカキコするのが全て自称オタクという訳でもないから、尚更、話題脊髄消費による流動化は避けられない。
そんな状況になっているからこそ、逆に「オタク」という自称をもってして、アイデンティティ訴求して世界観の補完をしなければなかったということがあるのかもしれない。
それが、「好きなものは好き!」である主体能力(表現力/情報収集力)を弱体化させ、所謂「自律」できないオタクの増加に繋がっているのかも。その自律できない=依存体質を、マスに迄狙いうちされるという循環に、どこ迄若いオタクは自覚的であるのか、という古参からの問題提起は、いつもすれ違う。

*1:ぱど厨問題id:hizzz:20040619、かざきり羽騒動id:hizzz:20040716、おお振POP騒動id:hizzz:20040819, id:hizzz:20040823、サークルクラッシャーid:hizzz:20050423、モテvs非モテid:hizzz:20050829、文化系女子id:hizzz:20060522

オタクという〈個〉のあり方

コンフリクトということでは、なにもそれはオタクに限らず、そもそもコミュニケーションを、情報交換/価値感共有/自己承認かの内、その目的としてどう意識して表出しているかということも、自己と他者との感覚(距離)をどう捉えているかという違いで起こることが殆どであろう。
「おたく」はそもそも、「時にお宅はどういう趣向?」と相対した相手に対して「お宅」=あなたの(セカイ的な)場所的に、人格でなく趣味観を指す二人称を使う人々というのが最初であった。つまり、趣味にのめり込みながらも、人格と趣味と生活は別という分割統治パースペクティブを自己内で持ちつつ、情報交換にいそしむという超個人主義者。そういう意味では世界という領地を持つ「貴族主義」といえるのだろう。
どうしてそんなカタチを好むようになったかと考えるに、岡田ら第一世代が10代をすごした1970年代におこった、60年代的「われわれ」という時代への絶望、学問権威/全共闘教養主義/大思想=文化支配)ラブ&ピース/オカルト(スピリチュアル=心の支配)産業進歩主義(上下構造)から逃れてトライブしつつ自由になる逃走方法でなかったか。おたくをおたくたらしめていたDIYという思想が背後から消えれば、そのあり方も変化せざるをえない。
結局、既存文化大思想からの脱却はオタキングのアカデミズムの接近が示している通り、べつのオタク教養主義という文化=政治なカルスタのタコ壷におちいいり、そんなこむずかしい蘊蓄オタク教養主義から脱落するライトオタクは、オレ様脳内スピでオタクアイデンティティばかりを求めだす。マイナーのそんな膨大な手堅い市場を見て方向転換したメジャーは、「萌えには萌えで」とばかりにあれこれ仕掛けを打つ。かくして、コンビニやブックオフ食玩ラノベや雑誌をせっせと調達するライトオタクがおたくのメインとして持ち上げられる。
意識としては、世界の中の点のおたく(何者でもない自由=趣味と生活の中間領域、大人に成らずに成熟模索=世界と自己を自由に移動)から、面の中の点であるオタク(束縛されない自由の承認=偏差値、校内/家庭暴力=子供のままで成熟模索=子供でいる為に世界の成熟を要求)に変わり、それが只の点=萌え〜(脳内自由の承認=成熟しない模索=自分が世界)になった時点で、自分が知らないコト&ひとは自分とは全てカンケーないディスという変遷でもあるか。
大人の〈責任〉、子どもの〈責任〉id:hizzz:20040626#p3