自他の差別化

残念ながら、オレ様は独りではなりたたない。実生活が限りなく孤独であろうが、脳内で他者を想定して、そこから自他の区別をつけることをする。それがどんな都合の良い妄想であろうが、微細になればなる程にリアルなものとして記憶されるそれをもって自己確認を計る。リアルとは、第三者検証可能な具体性理念とか論理ではなく、専ら慣性による(自己)知覚の重なりである場合が多い。生活習慣病などの例のように、意識する理性よりも無意識な慣性的嗜癖がとかく人生を支配しやすい。id:hizzz:20040210 id:hizzz:20050226 
その特定行為が自己を越えた他者に伝搬し周辺エリアに広がるとジャンルとなる。また、周辺エリアを越えて別エリアに飛び火して継続すれば「文化」となり、それを「既成事実」として世代間を越えれば「伝統」となる。id:hizzz:20050510 id:hizzz:20050514

支配的な集団は、共同体やシステムの中に選別した受苦者の集団を名づけ、その名に、劣等性と従属性の表象を押しこめる。自己表象が内面化されることによって、支配的な集団は受苦者を一度排除した上で、あらためてシステムの内部に、ただし周縁に、温情的に序列をもって位置づけて名辞消去をはかる。「小人」も、「障害者」も、「女性」も、「ゲイ」も、「アジア」も、「被差別部落民」も、「アイヌ」も、支配的な集団によって二項対立的に授認(授与かつ承認)されたアイデンティティなのだ。

栗原彬『共生の方へ』ISBN:4335501544

モノやコトやひとについて名称をつける「名指し」とは、呼ぶものと呼ばれるものとの関係を意識したときから始まる。中心を持つ文化は周縁を必要とする。例えば、この列島はかって中国から、周縁属国として「倭」という名付けが与えられた。それを覆して7世紀に「日本」と自称する。自名を獲得すると同時に、「日本」の周縁が作成される。「蝦夷」である。この「蝦夷」=擦文文化*1をカテゴライズした具体的地域&ひとは、後の時代によって異なった。「日本」という名称はこうした両義的作用の許に成立したのである。この両義的作用は、明治以降西洋近代以降も「日本」についてまわる。id:hizzz:20050505 

*1:蝦夷」=「アイヌ」とはならない

アイデンティティ政治

こうして他者に一方的に周縁化される「名指し」行為=意識させられる受け手は、その名指しが意味するところのものを容認する場合と、容認出来ない=抑圧を認識する場合がある。容認出来れば、中心意識に近付くことであろうし、出来ない場合は周縁の彼方「疎外」感となる。こうした時、名指しによるカテゴライズが極端であればある程、中心に向かう/疎外においやられる意識の亀裂は深まる。最初はひとつのアイデンティティを巡る両極だったものが、中心と疎外という軸の二項対立アイデンティティとしてジャンル確立するのである。このような現象を駆け引きに利用することを、アイデンティティ政治(identity politics)という。
アイデンティティの極は最初にカキコしたとおり、オレ様=個人である。アイデンティティ政治のハテにアイデンティティで勝利しよう?とおもったら、当事者オレ様主義の固有アイデンティティを立てるより他ない。が、それは、呼ぶもの=オレ様一方方向の独我論、呼応する他者の居ないタコ壷でしかなく、関係性もなにもあったモンぢゃあナイ。自己差別‐自己疎外へと進むそれは、アイデンティティの檻に閉じ込められることに他ならない。また、その自己疎外の息苦しさから差異の強調・賛美して、排他的攻撃性を強めて、外部関係をこじらすケースは実に多い。
さて「政治」といったら、自民党の派閥争いにみるように、○○族の利益誘導型=商売利権争いの調整というのがこれまでの主流であった。これの調整は分りやすい。Win-Win、五分五分という駆け引きができればよいのである。が、これがアイデンティティの争いとなると、お互いの利益という妥協点を具体的イメージする発想をオミットしてる為、1mmでも譲歩したらアイデンティティが成り立たないとばかりに、とかく all or nothing に吹き上がりやすい。

三位一体

目的(=原理)は手段(=形式)を正統化しないし、手段は目的をなんら正統化しない。けど、それぢゃあ八方塞がりぢゃん。と、いうことで目的=手段=正統化という方法論が模索される。いや、それが、あったんですな。それは、何でもありぃの「アート」の世界。いやしかし、まだアートだけだと、目的(コンセプト)=手段(アートテクスチャ&テクニック)だけ。そこに正統化をどうやってくっつけるかというと、「美学」。政治=美学とする運動とやらが一部左派文化人のあいだでブームとなってたがid:hizzz:20040123、昨今のハヤリでいえば、なんといっても「美しい国」か。ナニをもって「美しい」とするのか安倍晋三ワケワカメ、感性ってことか。「美しい」に厳格な理念はハマらないが故に、それぞれの想像する美しき誤解を封摂しまくったまま、曖昧模糊と鎮座することになりうる。目的=手段=正統化の三位一体は、「〈私〉=アイデンティティ=〈公〉」という理想型を「美しい」という言葉で朦朧と絡める事で、言語表面的には一応なりたつ。
一見、それは良き事のようにもみえるが、問題は、「〈私〉>アイデンティティ>〈公〉」という選択意識で個人がいても、その「美しい」とする中身が、先にカキコしたように曖昧模糊な感性は解釈如何によってはどうにも転ぶ正統性という、あやういものであることだ。ひょっとして、あやういはかない「美しさ」がネライ?したから、教育基本法だの憲法だので「美しさ」を挿入するというのか。明文化された「美しさ」というのは、ダレのドコを起点とした「美しさ」なのであろうか。その〈公〉とされた「美しさ」の影に追いやられる周縁の各々の価値は、どこに棲めばよいのであろうか。そもそも、そんな〈公〉が介入する「美しさ」標準は必要なのであろうか。従来アートは、「美しい」の基準(自己責任)を持ったてんでバラバラな個人が各々の視点から表現されたひとつひとつであるからこそ、それが多様可能性のコヤシとなり、その様々な表現が息づく社会は豊かな地場で膨らむという作用があるだろう。
「美しさ」という美学+感性(ロマン)=「モラル」とする〈公〉のアイデンティティ政治というのは、正統性の解釈権限を〈公〉がにきる、ということである。それは、「〈公〉>アイデンティティ>〈私〉」にいとも簡単になってしまうということである。「モラル」というのは、特定間の慣習がルールとなりモラル化されてる場合が大半で、特定間の慣習=なんらかのひとつのラインの上にしか存続出来えない前提を持つので、とかくコンフリクトが起こりやすい。id:hizzz:20050302

多様性と共生

「人間開発の視点が求めるのは、根拠なく伝統を維持することを支持したり、文明の衝突は不可避であると世界に警鐘を鳴らしたりすることではなく、文化の領域における自由の重要性、また人々が享受できる文化の自由を擁護し拡大させる方法に関心を向けることなのである。」と第一章で記すアマルチア・センが加わった国連の人間開発報告書では、世界の様々な文化/政治実態を敷衍し多様性にまつわる神話の原則とそれへの反論を纏めている。

神話:その1
人々の民族的アイデンティティと国家への帰属(attachment)は競合する。したがって、多様性の認識と国家統一の間には二律背反(trade off)の関係にある。
事実: いずれの国も、国家統一と文化的多様性のいずれかを選択する必要はない。個人は、国籍のほかに、民族性、言語、宗教、人種など、補完し合う複数のアイデンティティを持つことが可能であり、実際にもっている。また、アイデンティティゼロサムゲームでもない。国家統一と文化的差異の認識のどちらかを必ず選択しなければならないということはない。

神話:その2
民族集団は、価値観の衝突から互いに暴力的紛争を起こしやすい。したがって、多様性の尊重と平和の維持とは二律背反の関係にある。
事実: 実証的証拠によると、文化的差異や、価値観をめぐる衝突が、武力紛争の根本的原因であることは稀である。

神話:その3
文化の自由のためには伝統的慣行を守ることが必要である。したがって、文化的多様性の認識と、開発、民主主義、人権の前進の間に二律背反の関係が存在する可能性がある。
事実: 文化の自由とは、個人の選択の拡大にかかわるものであって、伝統に無批判に盲従し、価値観や慣行を維持することを本来の目的そのものとするものではない。文化は、価値観と慣行の硬直した組み合わせではない。女性が教育を受ける平等の権利といった、人権と平等の機会を否定する口実にはなり得ない。

神話:その4
多民族国家は、相対的に発展する能力が低い。したがって、多様性の尊重と開発の推進との間には二律背反の関係が存在する。
事実: 文化的多様性が開発を遅らせるという証拠はない。1970年から90年までの間に世界で10位の経済成長を遂げたマレーシアは、多文化国家でありながら、経済的成功も収めた一例である。同国の人口は、マレー人が62%、中国人が30%、インド人が8%で構成されている。

神話:その5
文化の中には、ほかの文化よりも堅実で、起業家精神に富んでいるものもあれば、そうでないものもある。また、民主的価値観をもっているものもあれば、もっていないものもある。したがって、特定の文化を受け入れることと、開発および民主主義を推進させることの間には二律背反の関係が存在する。
事実: 文化と、経済的発展あるいは民主主義との間の因果関係を示すような証拠は存在しない。経済成長率を説明するにあたっては、国家政策、地理、疾病状況といった要因がきわめて密接に関連していることがわかっている。その一方で、ヒンドゥー教社会か、イスラム教社会か、キリスト教社会かといった宗教的指標は、統計的に重要でないこともわかっている。それと同様に、イスラムは民主主義と相容れないという、西欧社会でよく言われる見方は、今日では世界のイスラム教徒の大半が、民主的統治下の社会で生活しているという事実に矛盾している。

国連開発計画(UNDP)「文化の自由は人間開発に不可欠である」
http://www.undp.or.jp/hdr/global/2004/hdr2004jsum01.shtml

国連開発計画『人間開発報告書〈2004〉この多様な世界で文化の自由を』ASIN:4906352510
「人間開発報告書2004」の概要
http://www.undp.or.jp/publications/pdf/undp_hdr2004.pdf

そもそも「〈私〉=アイデンティティ=〈公〉」という三位一体ダンゴにするから、他者異者との共生ルールという〈私〉と〈公〉多層レイヤー方法論が組み立てられないということである。政治(システム)を美学(文化)化するナショナリズムだろーが、美学を政治化するマルクス主義だろーが、20世紀の歴史が証明した通り、それは全体主義への道。id:hizzz:20040411 id:hizzz:20040424
思想信条の自由をこの多様性世界にさぐるならば、それはアイデンティティや理念/信仰といった「理性の正しい使用に対する責任の共有@教皇ベネディクト16世」のような自己原理の正統性を他者を周縁として使って補強=拡大政治するような原理の立て方ではなく、「共有理解を目的とした理性の標準的使用に対する我々宗教者の責任」という風な原理の使い方の問題なのではないか。そしてそれを常に意識することが、自己原理に反する他者異者への外部回路となって共生了解への模索が開けるのではないだろうか。id:hizzz:20050815 id:hizzz:20060103