「戦闘者」=「本来の武士道」は、何故おかしいのか。

武士道の逆襲菅野覚明は、「武士らしい武士とは何かを追求するのが武士道」と武士道を説明。具体的な「本来の武士道」として、江戸期の「葉隠」的武士道と、「戦闘者」思想を江戸・太平の世に合わせた儒教的「士道」の2つに設定。そして明治期以降の西欧的価値観を取り入れた新渡戸・武士道と百姓を兵士にするための『軍人勅諭』を「武士の思想とは本質的に何の関係もない」「文献的にも歴史的にも武士の実態に根ざしていない」と語気あらげて批判追撃しまくりんぐ。「本来の武士道」と違って明治武士道は「明治国家体制を根拠として生まれた近代思想」だそーな。
しかし明治武士道がそうなら、「「戦闘者」思想を太平の世に合わせた」とその変化を認知している(外来思想であった朱子学を取り入れた士道)江戸武士道も又「徳川幕藩体制を根拠として生まれた近世思想」にすぎないのでは。単に中高教科書的史実を鑑みても、ちっとも「戦闘者=江戸武士」→「戦闘者=本来の武士道=江戸武士」にはならない。
戦争ど真ん中にいる大抵の戦闘当事者が必要とするのは「葉隠」的なことや「士道」的なことではなく武力必勝法=必殺技であり、その必殺技自体を封殺された平和時に必要とされたのが、武装解除の中でかって有効であった武力をプライオリティとする生き方の正しさ理由=徳目=道徳ということであろう。大きく分けてその2つが時代状況に併せて変遷しているだけなのではないか。
『国史大辞典』*1をひも解けば、「武士道が武士の道徳を指す言葉として一般的に用いられるようになったのは明治以降である。」で始まる。核になった武士道は存在しないとの見方が史学的定説である。

儒教的教養が普及した近世においては、戦国時代に形成された武士の道徳を儒教によって根拠づける動きが顕著に現れ、それが士道として説かれた。武士道は、この士道論者から、徒らに戦国武士の余習を継承するものとされた武士道道徳論の呼称である。
(士道と武士道は)元来通底するものをもつことが、儒教の権威の後退、伝統的な武士的な気風の憧憬等々によって表面化し、根底に士道的な立場をとりつつも、みずからこれを武士道と呼ぶ傾向が次第に高まった。

「武士道」吉川弘文館『国史大辞典』

ポイントは「戦国武士を継承するもの」ではなく「戦国武士の余習を継承するものとされた」としているところ。「本来の武士」とか「日本古来の武士道」とかいうもの、その中身は「されたとする」主張主体者ごとにバラバラで一貫性ないということ。
「侍」とは、五位以上の主君(公家・武家)に使える(さぶらう)者の身分名称。侍と同意儀に使われもする「武士」は、武力行為にかかわる者をさす。また、その語源は「もののふ」ともいわれるが、これは神事と武力を司った物部氏石上神宮)に由来する。
んが、物部氏そのものは奈良時代大陸仏教&帰化人を背景とした蘇我氏に敗北。あっそうそう、古代といえば、軍神・ヤマトタケル、宴席に女装して酔いがまわったクマソタケル兄を不意討ち。…それって「武士道」的戦いからすると、かな〜りイリーガル*2
さてそれ以後をワタクシ的には、武士の行動パターンと状況が大変化した歴史変遷としては、ざっくり3つに分けて考えつつ検証してみる。

*1:こうだと思い込んでいる語彙も図書館で引いて見ると、世界が広がる。1冊の本でなにかを理解しようとするよりも、こうした辞書で、関連を調べていくと、いろんな発見がある。

*2:無論これには、ジェンダーにもつながる「神話的寓意」が込められてるのである

中世〜戦国時代:ご恩と奉公武術

いわゆる「日本刀」といわれる奴、鎬造りの彎刀が完成したのは平安中期。合戦の日時と場所を予め使いをおくって「宣戦布告」する儀礼をやりだした。「侍」や「武士」はあれど「武士道」という言葉は、中世ではほとんど使われてない。『太平記』には、「弓矢の道」とか「弓馬の道」とかで「道」がでてくるが、もっぱら戦闘技術に関するもの。「御恩と奉公」見返りでイーブンな関係は鎌倉幕府政権に引き継がれる。んが、2度の蒙古来襲に参戦した武士達に報いる褒美=ご恩がなかった為、幕府瓦解。後醍醐朝廷は、武士ニーズからは遙かに遠くて没。その頃の南北朝の「勤皇の志士」を滅私奉公の原型とする説があるが、なにしろ当の北畠親房が褒美への不満をもらす「勤皇の」武士が多いと嘆いたと記されてる始末>『太平記』。室町幕府は、王権根拠と確固たる政権基盤を維持出来すに、武士のみならず僧侶や民衆まで一揆をおこすの大波乱、かくして戦国時代へ突入。
こうした中のご恩と奉公関係は、個々の武士と雇い主との直列関係。「勝ち名乗りをあげ」て功労を貰うライバルである武士同士の横の関係はない。ひたすら戦闘技能を磨いて、身を守りつつ、出し抜いてでも生きていかなばならぬ。生き延びる為の必須テクとしての「武術」。しかし「下剋上」総当たり戦を勝ち抜くには、効率的な武力の使い方、何がしかの戦略・戦術が必要である。とゆーことで「兵法」登場。武田家『甲陽軍鑑』1615〜1624年は、才もとかれてたりするが、根本的には貴族&僧侶という知識階級に対抗した武力の極め方を説く。
ま、しかしニューテクノロジー「鉄砲」もった足軽軍団の前には、弓矢・槍・刀剣術は役たたず。結局、戦国時代を制したのは、武術でも兵法でもなく、築城技術と経済力に基礎をおいた政治力(政権簒奪正当性の画策)だったとさ。

近世・江戸:官僚侍の武芸

id:hizzz:20050514以前さんざん書いたが、経歴でっちあげて「征夷大将軍徳川幕府。大久保(彦左衛門)忠教『三河物語1622年は、将軍家として遠くなった主君との関係を、艱難辛苦を共にした三河時代から語ることで子孫たちに徳川への忠勤を説くが、武訓というより太平記と同じく民衆講談ネタに。
宮本武蔵五輪書』1645年は「兵法者といひて世を渡るもの、是は剣術一通の事也」、要は剣術の本。しかし、武術や兵法の進歩を考えれば、ニューテクノロジーたる鉄砲がそれに組み込まれないと変。ところが、もはや鉄砲は為政者独占(鉄砲がり)となった後に、鉄砲使えない戦略をあだこだいってても始まらない。将軍家指南役・柳生家も「剣禅一如」で、いかに戦うかよりも戦いへの平時の心構えを説く。こうして、実践を封鎖された武術は、「武芸」に返還された。
しかし、武士使用法としての兵法はそれではこまる。戦闘能力が高まれば、不満があればただちに下剋上されるもの。という訳で山鹿素行は、孫子儒教をミックスして「平時は仁義・乱時は権謀」なる『士道』1663〜1668年を説いた。当時、ダブルスタンダードとの批判もあったが、「武」より「士」、これが徳川政権のシビリアンコントロール下の侍規範となる。朱子学者・貝原益軒『文武訓』1634〜1714年は、日本の武道は仁義などといってられない戦い、文学(=儒学)なき人は道理にうといと武道批判した。
さて江戸中期、佐賀で山本常朝『葉隠』1716年は生まれたが、幼年期の聞き覚え(父親が70歳の時の子供)からひたすら佐賀藩主(鍋島藩)との「忍ぶ恋」主従関係を強調する為の特定周囲への批判などがあり、身分序列と礼に反するとしてあえなく藩内発禁という異端の書。
という訳で、かって現役戦闘者だったのは、武蔵と彦左衛門な位で、ここに書かれていないのも含めて「士道」「武道」「武士道」エリアものは、全て後代著者による誰かの伝聞または創作。精神思想としても著者によっててんでばらばらで、同時代の儒学-朱子学にみられるような体系もない。

近代・明治以降:皇軍思想としての武道

1876年(明治9年)、廃刀令公布で帯刀禁止。山岡鉄舟『武士道』1860年は、以前には「武士道」という言葉すらなかったとして、剣道の極みとして「形か、心か」「善を知ることか、善を行うことか」という問をたてて、心を主体とした神儒仏三道融和の道念として自己創作言葉であると「武士道」を考えた。剣客にして無刀流の開祖であり本丸・江戸城無血開城の立役者が、そもそも「武士道」があったと知らなかった。つまりそれ程に「武士道」マイナーだったということであろう。ここいらへんで「武芸」は「武道」になったのか、も?
西周・陸軍卿山県有朋の『軍人訓誡』1878年明治11年)、『軍人勅諭』1882年(明治15年)は、天皇を頂点とする絶対服従・滅私奉公を普遍原理な国民道徳として発布。(徴兵令1873年、『大日本帝国憲法』1889年、『教育勅語』1890年)
新渡戸稲造が米国で書いた『武士道』1900年(明治30年)は、米国で英語出版された。新渡戸自身特にそれ以前の「士道」「武道」「武士道」的文献を読んでいた形跡はないが、米国で見聞きしたヴィクトリア時代精神&プロテスタント規範を、自己の「日本的精神概念」と思われるもので置き換えて説明づけたもの。それが逆輸入されて国民的に爆発的人気を呼ぶのは、日清戦争1894年(明治27年)〜1895年(明治28年)勝利で中国を軽蔑することが出来た(主従関係の逆転)後ロシアに日本が勝った理由として読まれた日露戦争1904年(明治37年)〜1905年(明治38年)後であった。内村鑑三「武士道と基督教」1916年は、「武士道は神が日本人に賜ひし最大の賜物であって、これがある間は日本は栄え、之が無くなるときに日本は亡ぶるのである」と大賛美しまくり。
そして『葉隠』が佐賀県以外に知られるのは、1906年明治39年)小学校教員が自費出版したことから。日露戦争後の「西洋列強入り」盛り上がりの中で1912年の殉死事件をもって、一般ウケしない無名な藩主と党郎なんぞより、明治天皇乃木希典という超大物具体像とむすびついた『葉隠』派は、勅諭&勅語の精神とその当時流行っていた「日本古来の武士道精神観」イメージを一体化して心情闘魂注入する。
更に井上哲次郎『武士道全書』1942年(昭和17年)は、「今後武士道的精神を研究し発揚し、将来世界に於いて皇国の権威を維持するのみならず、益々是を発揚するために、何うしても武士道的精神を十分涵養して之を子孫後昆に伝へなければならない」と皇国権威の維持&発揚と「万世一系の国体」に直進する。

(武士道というものは)健康であることよりも健康に見えることを重要と考え、勇敢であることよりも勇敢に見えることを大切と考える、このような道徳観は男性特有の虚栄心に生理的基礎を置いている点で、最も男性的な道徳観といえるかもしれない。

三島由紀夫葉隠入門

もともと「学問」でもなかった「武士道」には、なんのお墨付きもない。武人と称された人々の自己吐露や逸話をネタに、後の者の好みでチョイスしてつないだのが「武士道」という名称で数多あるということである。そしてそれをまたまた後の者が自己論旨に合わせるべくチョイス&解釈したのが、「本来の武士道」とか「日本古来の武士道」という武士道観が創作され続けるのである。本物・偽物という本質主義な判断基準でジャッジすること自体が、史実に合わないのである。
「日本人本来の」というのが最初になにかあるのではなく、その時代に合わせて「創作される伝統」、こころや精神というのは、元来そういうものでないだろうか。

混沌とした中から、ひとつのエッジを立ててモノやコトやひとについて名称をつける「名指し」とは、呼ぶものと呼ばれるものとの関係を意識したときから始まる。中心を持つ文化は周縁を必要とする。>id:hizzz:20061005 と、すれば、「武士道」を男性規範として見れば、その鏡映像としての女性規範が立ち上がることでもある。>id:hizzz:20040524

てなことで、国民道徳とジェンダーについては、また。


・参考
日本倫理思想史研究〈第2〉武士道の思想とその周辺』古川哲史
武士の成立 武士像の創出』高橋昌明
思想課題としてのアジア―基軸・連鎖・投企山室信一
人類にとって戦いとは〈1〉戦いの進化と国家の生成』佐原真