アジテーションよりゃ、納得・お得がソリューション

最近あちこちのブログで「トリアージがどうこう」てな話題が展開しているようだが、火元は社会学徒に経営学を教えた感想をつづる>ケーキ 副耳コラム
ま、経営判断のベースとなる最適合理性の説明に「トリアージ」=ゼロサムな究極の判断を出したのは、そもそも例が不味い。「感情を論じずに、どうしたら市場で生存できるかを、対処可能性を論じるのが経営学だよ、百貨店だって、今日を予期して手を打っていたところはまだしもそこまで窮地には立っていないでしょう」というこの先生の説だと、経営立場として「現状維持でだんだん悪くなる」んなゼロサムにまで追い込まれるまで手を拱いていた先見(バックアップ態勢や複数案)のなさってのが不問に付されて、ひたすら「究極のゼロサムゲーム」ばかりが強調されているから、「感情的」にもなるのだろうな。
経営学体系がこうしたゼロサムばっかし扱っているとは思わないが、企業人とか経営学者とかの中には得てしてこうした極端な言い方(=危機を煽って承伏させようとする)アジテーションを好むきらいがあるようだ。>強いリーダーシップ待望論
経営学を学ぶ社会学徒って人々がどういう風に事業経営を考えているのかは判らないが、そんな彼等は現在消費者であることは間違いない。そして将来事業従事者としてサラリーマンになる者が多いのであるとも仮定できる。そうしたときに、「経営はトリアージだ」な経営方針にすんなり従事できうるか?また、そうした事業に対する潜在消費者満足度を上げることが出来るか?というと、問題がおこるであろう。
経営学的理念から見ても、ちとこれは短縮的すぎる説明である。ISOで規格化が進んで、昨今提唱されてるCSR(Corporate Social Responsibility)っつーのは、そゆなりふりかまわぬゼロサム生き残りなんぢゃなくって、事業者(企業)と消費者と社会の三つ巴の関係(あらゆる利害関係者=Stakeholder)を加味して、SD(Sustainable Development)持続可能な開発をめざすという、国際自然保護連合(IUCN)、国連環境計画(UNEP)の理念に沿った経営なんでないのかな?>http://www.eoearth.org/article/Sustainomics_and_sustainable_development 
また、行動面の動機喚起に於いても、一方的すぎる事業者側の論理である。「競争で負けた組織はかわいそうだ」というナイーブさを排除した最適合理性は、上記の2点の視点を加味した時には、事業者としては最適合理性に見えてるだけで事業的に実は全然最適合理性ではない判断なのである。人は説得ダケでは動かない。恐怖や危機を煽って無理やり「説得させる」のではなく、ここちよく「納得する」だけの自発動機がないと、感情は動かない。特に、事例で出しているショッピングなんて、感情動機の最たるものである。ノルマに追われた店員が脅迫的に品物を押し売りをする店で、誰が買い物をしたいとおもうものかいな。
CSRアーカイブ http://www.csrjapan.jp/
・非合理のプロセス理論id:hizzz:20051205#p2、視覚の快楽id:hizzz:20050226、判断予想id:hizzz:20040516#p4、合議の知id:hizzz:20040516#p5

「格差」という言葉でごまかさる「貧困」

ワタクシは、常々「ニート」だの「ワーキングプア」だの「経済格差」だのという言葉に隠された欺瞞がもう鼻についてならない。ニートワーキングプアネットカフェ難民は、全て若年学卒無業・低賃金者問題に収斂してしまい、「経済格差」という場合もそうした問題若者と若年学卒就業者との生涯賃金格差に始終する始末。でも、ニートの本来の意味は若年低学歴無業者のことだし、住所不定ネカフェ難民は若年よりも中高年の方が利用割合高く、ワーキングプア生活保護ライン以下の就業者で生涯賃金格差と共に、なによりも男女格差の方が大規模で長く続いている問題である。
度々カキコもしてきたそれはどういうことかというと、アッパーミドルクラスが下層階級へ下落する不安を「トリアージ」的な例を出して世間に煽ると同時に、自分たちこそがさも、貧困下層階級であるがのごとくな言説によって、それよりもずっと貧困だった人々の更なる貧困を見えなくさせていることである。多様なライフスタイルにそぐわない均一な制度を告発するのに、それを均一な格差状態に代表させてしまうクローズアップの暴力といっても良い。確かにそれによって問題は表面化したかもしれない。しかし、以前カキコした通り、クローズアップされた派遣問題=若年就業者の解消ということに、政府も野党も政策集中してそれで済まされようとしている。>id:hizzz:20080427

遺児母子家庭の母親の年間勤労所得と一般のサラリーマンの年間勤労所得の推移について、控除前の金額で見てみますと、1998年の母親の所得は200万円で一般の43・2%。それ以前の調査でも、母親の勤労年収は一般の約4割台を維持していたのですが、年々減少し、2003年には131万円と一般の29・6%にまで落ち込みました。2004年にやや回復したものの、2006年は137万円で一般の31・5%にすぎません。
月給の手取り額の平均はわずか12万円で、2002年9月調査のときの13万600円から1万600円減少しています。また、2007年における45歳〜49歳の一般女性の、ボーナスを除いた月給の平均、24万2200円の49・5%と半分以下です。

遺児の教育環境は極めて劣悪です。26・3%、4世帯に1世帯もの子供たちが、家計や学費のことを考えて進路を変更しています。

政府に対しては、「格差問題」という言葉でごまかさず、「貧困問題」としてとらえ、真正面から取り組んでほしいと思います。2007年4月から遺族年金や生活保護母子加算がカットされましたが、母子家庭等への自立支援プログラムが十分に機能する前にそういうことはするべきではありません。また、日本の教育費、例えば大学の授業料は、OECD加盟国の中でも日本は、オーストラリア、アメリカに次いで高額です。裕福な家庭の子供でないと教育も受けられないというこの国の未来は一体どうなってしまうのでしょうか。その他、医療費や最低賃金の問題など挙げたらきりがありませんが、政府は、遺児家庭だけでなく、すべての社会的弱者が、憲法にうたわれている、文化的な最低限度の生活を営み、教育の機会均等が保障されるための施策に力を注いでほしいと切望します。経済、すなわちお金のために、人間らしい生活を犠牲にするために、私達はこの世に生まれてきたのではないのですから。

あしなが育英会理事 工藤長彦 視点・論点「母子家庭は今」

旧来の男女賃金差別に加えて終身雇用扶養家族制度・性別分業の谷間である社会のエアポケット、母子家庭問題は既出であるが、だからといってこの問題はなにひとつ解決していない。解決していないまま、「待機児童ゼロ」などというむなしいスローガンだけが飛び交って*1、昨今のワープア旋風=若年学卒者貧困問題に呑まれて埋没している。こうした「ワンフレーズ・ポリティクス」ありきなメディア・ナショナリズムid:hizzz:20070109#p3に関しては、パフォーマンスよりもクオリティが問われなければならないのではないだろうか。

*1:公的保育所に入所するには就業先の証明書を要求されるが、現実的には求職時から保育問題が解決していなければ求職活動すら不可能という、ばかばかしさ。

流動化とダイバーシティ

グローバリゼイションの波は、企業にとってもその雇用形態を変えざるを得ない。顧客が多様性をもっていれば、そりゃあ対応するほうも同質均一をもって良しとする訳にはいかないのだ。国内企業でも昨今の企業買収の波でトップが外国人経営者に変わり、外国人雇用者が正社員として国内オフィスで働くケースも多くなった。又、雇用形態も多様化した。そうすると、いかにも日本的な阿吽の呼吸的集団業務慣習は通用しにくくなる。
これは、グローバリゼイションの効果だと見る。ワタクシの見聞きしたケースでも、様々な立場の従業員が働いている場所では各段にシゴトがしやすい。てゆーか、まさにワタクシ自身がそうなのであるが、旧来的組織でグローバリゼイションがなかったら、そうした場所に入り込むこともシゴトして成果出すことも不可能であったのは事実である。
上記にカキコしたCSRの中には「ダイバーシティ」=多様性の受容(Diversity & Inclusion)という概念がある。これは、性別・身体・年齢・出自・人種・価値観・性格等の外見や個性の多様性容認・担保し、それを活かしていく組織づくりが求められている。従来組織へのこうした個人特性に関わる問題としては、セクシュアル・ハラスメントへの取り組みがあるが、セクハラが性差別解消という目的に対して、ダイバーシティは個体差を均一企業風土に慣らすのではなく、積極的に個体差の活用を企業戦略として位置づけようとする試みだ。川口章『ジェンダー経済格差』では、革新的企業での女性活用例が挙げられてる。が、これは現実にはそう手ばなしで喜ばれることでもない。
基幹的職種にも中小企業では女性が活躍してる例はあるが、問題は賃金である。中小故に社内での比較はしにくいのであるが、他企業役職と比較すれば、大抵女性の方が低い。妻帯男性にはもれなく付く家族手当・住居手当等は、女性には付かないことが多い。元々平均賃金が安い有能女性を雇い入れることで、人件費を抑えることがいとも簡単に出来るのである。*1
ならば何故、母子家庭の女性雇用が進まないのか。これは人件費で見れば明白である。ワーク・シュアリングは、仕事の範囲やワークフローが明確でない多くの企業サラリーマン形態に於いては、仕事の引き継ぎというコミュニケーションがえてして煩雑になりやすく、結果人件費や経費が大幅にかさむからである。*2「ワーク・ライフ・バランス」というのが昨今の流行ワードであるが、なによりもワークフローの明確な職務形態にもっていくことが、突然の子供の不調で勤務中断しなければならない事情がある母子家庭ならずとも、家庭や自身の不調で勤務中断出来得ることが、長く働き易い職場であることにも繋がる。「ワーク・ライフ・バランス」=「ホワイトカラー・エグゼンプション」=賃金短縮→残業代一律カット(&外注・請負代カット)という短縮ではなく、適切な「ワーク・ライフ・バランス」へのステークフォールダー利益確保マネジメント、そうした見方がCSRとしての経営能力として、社会から事業者に問われつづけることであろう。
ダイバーシティ評価基準の実態と課題 http://www.nikkei.co.jp/csr/think/think_diversity.html

・個人というフィクションid:hizzz:20061022

*1:「女性雇用者の割合が高い企業は生産性が高い」とされる理由について、川口教授は女性の相対生産性の高さではなく、女性の相対賃金が相対生産性を下回っているとの解釈が正しいと論じています。女性の相対生産性は低いが、相対賃金はそれ以上に低いという見方です。その背景として、生産性に対する賃金への見返りの低い企業が女性を多く雇用する雇用機会の不平等性と、一般職女性の賃金を低く設定するコース制によってそれに見合った低い生産性の社員を生み出す逆マッチングの問題が示唆されます。>http://www.rieti.go.jp/jp/events/bbl/08052301.html

*2:人件費はボランタリーで無しとする共同体などで多く誤解されているとが、このコミュニケーションの手間暇によるマネジメント経費=コスト高の無視・軽視である。