スタイルの中にいつづけると、何かが麻痺してくる

自分に便利な環境はその身体化した制度故に、思考のさまたげとなるってことかもね。

はてなというのは、ある種議論の集合知的シミレーションなんで、どんな意見でも出る。でも問題は意見の多様性というより、その多様性が、前提の欠落によって導出される点です。なにかをネグルから多様に見える議論が噴出するというのは、変です。まあ、それも緒論あるべしともいえるかな。
で、その前提というのは、多分に、社会にとって普通の暗黙の合意です。もし、はてなが社会的に機能するなら、その合意の前提部分が可視になるような集合知が働かなければいけない。でも、それ、けっこうもう絶望的じゃないですか。

『その件』 http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20080607/1212804254

ああ、これはなんかわかる。あまり更新もせず、myはてダとmyはてブすらほとんど話題的にクロスしてないワタクシなんであるが、たまにはてダやキーワードリンクなど繰ってみると、妙な方向で話題がもりあがっているケースに遭遇する。
例えば、副耳コラム「トリアージ」から発展してはてなダイアラー同士で言い合い?してた「ホロコースト」話題。これは前回書いたとおりid:hizzz:20080528#p1、経営学の事例として「トリアージ」はちと極端で不適って程度なハナシだったと考える。
それが第一義で、後、「かわいそうという社会学女性徒」という事例で「女性」「社会学徒」「感情」属性への批判を、「男性」「経営学」「先生」という属性をもってして行ったから、前者属性にある者&シンパ達の反響を呼んだにすぎない。だからハナシは「経済学」を離れる、てゆーか「だから経営学=弱者を見捨てる資本家側は…」な弱者社会派主張=ポリティカル・コレクトが多発するわ、出てきても経営学者・経営学理論はドラッカーしか出てこないわ、そっからトリアージとしてホロコーストが出てきて、歴史解釈論が一通りとびかうわ…、てなことでハナシの土台であるハズの経営学なんかとっくの昔に消滅。と、これだけ読んでると、なんでそーなるのか、あんぐりしているであろう副耳コラム先生以上にワケワカメなんだが、そのハナシの展開に大いなる寄与してる媒体が、はてブキーワードリンク。それを追っていって初めてそういう道筋がみえる。
経営学ってWikipediaでも触れられている通り、「社会システムを中心とする環境のなかで企業がいかに運営されているか」を解明する学問なんで、社会学を専攻する者はまずその社会的仕組みを把握する為にカリキュラムに組み込まれているのであろう。経営=資本家=支配搾取者=社会悪って思うのは勝手だが、経営学=悪って経営学をアタマから否定してセマンティクな管理運営への考察を放かしたら、後手段として組織論の枠組みとしてはナニが残ってるのかよくよく考えないとね。>社会学的には
・失敗の本質id:hizzz:20080111#p1 ・多様性との棲み分け共生id:hizzz:20070405#p1

自己スタンスの限定性

はてなダイアリーは、なによりも元はダイアリー=日記という設定なんだから、論説や批判や意見じゃなくって単なる「感想」書くのはまったくかまわないとはおもう。その日記とBlogとが曖昧模糊と混在させてるように見えるものが、はてブキーワードリンクidコールやトラバなんだろう。でも、はてなでも大部分の人たちは、それらの横の世間繋がりとは関係なく自己&友達世界でそこそこやっている。
だが、それが上記の「経営学先生」などという社会的立場だったりすると、今回のようにワキが甘いぶ文章が綴られると、つっこみの嵐となり易い。後、歴史問題で度々物議を醸す池田信夫先生とか。あ、この池田先生もカタガキ経済学者なんで、尚更?社会派はてダな皆様の経済ギライが増すのかな。
以前から書いてるけどワタクシのスタンスは、コンビニ前のウンコすわりである。はてブキーワードリンクなどは、コンビニを利用する人々の足跡。で、その気になった足跡があまりにも偏ってたりして変だなぁ〜っと思うと、なんでそっちばっか見てるんだ???と書いたりする場合は結構あるかな。最近書いてる貧困とか歴史問題とかは、本当は複合的な問題なのにメディアも含めて論説擁護派にしろ批判派にしろ単純化しすぎな面がとても気になってしかたがない。ま、後でサルベージする者に対してこんな視点もあるよ的なことでしかないが、「(話題ラインに)上げてもらえない」異論がないことに絶望する前に思う異論を書いとくか程度で。
そして数多な「感想」当事者主義も、半径ワンクリックな単純化したワンフレーズポリティクスの安定の上で展開されている。感性ってものの使い方は、本当はそうした巌のような議論構築の牙城の既定路線から外に出る=「降りる」為のものだと考えているんだけど、最近はむしろ別の議論構築の牙城に取り込まれる為に発動させているかのような結果とBlog上なっている。>「かわいそう」といったという女生徒、「死ねばいいのに」というはてブのタグ
あとは、、、、理性の使い方になるのかなぁ。

思弁にタガを嵌める理性

私たちの制度(政治的、社会的、道徳的、宗教的制度)の多くは、批判的ないし懐疑的につきつめるとうまく立ち行かなくなってしまうようなものです。懐疑論者が体制側につくことはまずありませんし、だから危険人物ともみなされます。しかし、懐疑的態度が権力に引き起こす困惑が、ここで私が扱いたい問題なのではありません。論じたいのは、懐疑論が合理性の本質的な要素であるにもかかわらず、やりたいようにさせておくとその懐疑の触手を野放図に伸ばしていき、やがて合理性という建物を破壊してしまうことにもなる、この問題です。ここにおいて懐疑論は、カントの言うような、相反する形而上学的立場の果てしなき争いの結果として現れるわけではありません。出発点はあくまでも、私たちの常識的な、きわめて理の通ったいくつかの判断基準です。それが、無制限に適用されるとき、手当たりしだいにあらゆる知識をなぎ倒してしまうのです。とりわけ、私たちの知識の源泉と目されるものに向けてその批判的な力が解き放たれると、懐疑論の極端なヴァージョンが宿命的な結果として待っています。

ロバート フォグリン『理性はどうしたって綱渡りです

「いかなる体系をもってしても、われわれの知性と感覚を擁護することは不可能である。体系によって正当化しようと努力すると、かえってわれわれは知性と感覚とをいっそう矢面に立たせるだけでしかない」というヒュームの言葉を引く著者は、理性がその理想を存分に追い求めるときに、不可逆的にパラドクスか不整合にいきつき、二律背反や行き過ぎた相対主義懐疑論など言語=ロゴスの暴走でタコ壷に入って幻想や不満・自己不信が空回りするような危うい知的生活には、随時現実を取り込んでならすという「思考を越えた制約」の下に思考を置く。本来非概念的なものの制約を受けて成り立ってる理性は、その制約に服してしかるべき予防措置を講じておくべきであり、野放図に発展させるから難解/困難を伴うと説く。