BLの対としての百合という幻想

「BL文化の隆盛に対し、百合文化というのはいまいち栄えていません。これは現代日本の女性にとって、男装というものがほぼ不可能になったからではないかと思うのです。」というおーつか君は、その理由をジェンダーに求めた。

むしろ女性にとって男装による挑戦が不可能になった現在は、男女の階級性が隠蔽され、その闘争が内在化されてしまっているのではないか?
いっぽう男性は女装による一時的女性化という「いいとこ取り」(by上野千鶴子)をあいも変らず実践することにより、女性の周辺化とそこからの収奪を行い続けているとも言える。
つまるところオサーンに逃げ道はないのだ。
つーかBL本が本屋の棚を何本も占領している現状というのはどう考えてもおかしいのであって、ジェンダー的に公正な世の中になればポルノ小説と同程度の市場規模に転落するものと予想されます。

不平文士の飲酒日記『日本における男装の不可能性とBL文化の隆盛-性の非対称性』id:o-tsuka:20080625

まずもって男装=百合文化・BL文化=女装としてしまうのが、かなぁ〜り恣意的。だって、それじゃあ男装する人は百合文化を背負えって、とってもセマイところに追い込んでしまっているから。コスプレイヤーひとつとってみても、男性キャラに扮しているBLちゃん(性別関係なく)は、結構いるしね。むしろレイヤーしようとおもうと女性キャラ=美少女の方が作り込み難度が高い=非日常なので、固有名詞キャラでなくイメージ・キャラ(メイドや巫女だの)を装うケースの方が多いのではないかな?その方が失敗が少ない。美少女キャラがなんで難易度が高いのかといえば、自己性欲対象を外から眺めるかたちか、内なる自己代行者としてのかたちを自己で具現化するか、というクリエイティヴが要求されているからだ。ワタクシの知りうるかぎりのアニメや漫画での美少女キャラの造られ方は、その2タイプに収斂される。
次にレイヤーでない異装で考えてみても、渡り合えるような美しい男はリーマン社会には到底いないから、無理に男装麗人=ハイパーウーマンになる必要もなくなったのでは。*1んで、その夢冷めやらぬ一部女性はBLとかの別腹でトランスするようになったんでは?*2id:hizzz:20040220#p3
ま、流通している「BL文化」以上にマイナーな「百合文化」、当人が「百合」といえば「百合」なんだろう程度(百合文化というフィクション)で厚みを持たない状態なのだから、尚更、「自己の絵的要素に対する自分の価値観の意志表明の可視現実化という考察(含む批評性)」=造形がないと、ただの異装を特定文化といいはってても、絵的要素的にも思想的にもそう表現してない=モードになっていかないだろう。それは単に男装・女装するんじゃあなくって「百合コード」というべきそういうスタイルを創造・演出する気があるのかという問題でもある。<インスタレーション性の欠落
しかし、むしろ(未だ文化の体をなしてない)百合を対文化幻想として、BLの周縁に建てようとする作為意図「ミニ・スカートとマリン・ルックとハマトラの男性会社員がそこらを跳梁跋扈すること」と一緒くたにされることこそ、余計な御世話かと。

*1:ドレススカートやシフォンワンピースといった甘口なものの上にかっちりとしたテーラードジャケットを合わせるスタイル「フェミ凛」が、今年のトレンドに。http://allabout.co.jp/fashion/nyfashion/closeup/CU20071125A/index.htm

*2:そもそも殆どの女性にとって昔も今も「おしゃれすること」以上に「男女の階級性」なんか、はるかにどーでもいいって事である

モードクオリティ=洗練の排除

コメントで「なんでファッション(エロスの纏い方)の失敗・モードのハナシがヌケ落ちるのか」といったのは、「ミニ・スカートとマリン・ルックとハマトラ」といった語彙に対してだ。文化=モード服飾といったことを考えているバズなのに、なんでそんなぞんざいなチョイスが出来るのかということ。例えば、女装=ロングヘアで胸つけてスカートドレスで口紅つけて嬉しくなる程度の「着ぐるみ」なんかいくら増えても、「マイノリティたる自分の価値観の意志表明の可視現実化」になんかは、ひとっつも貢献しない。前回書いたとおり、わたしもあなたも同じね的コミュニケーションを目的とした装いと、ライフスタイルをも表すモードファッション=エクスプレッションは、似て非なるものだからだ。それだからこそ、モードの尖鋭化はアートと成り得るのである。
コミュニケーションを目的とした装いで良いのならば、なにも異装をする必要はないのである。リアルクローズでも、ブランドでいえば津森千里とか(下北系でない)高円寺系サブカルとかは、こぞって「醜いアヒルの子の物語」を夢想する。ハンパな文化エリート化=パチモン化しようとする「BL文化」とやら、洗練を排除した洗練迄到達せずに、数多のサブカルと同じく、けっきょく自意識はソコに収斂されるのかな。。。>イナゴ問題id:hizzz:20040109
服飾全体からみてみれば、BLはマンバなどの一次的現象にとどまっているのが現状だから、ハイカルチャーからもサブカルリアルクローズからも「転落」しっぱなし。現在本棚を占領しているかのように見えるのも、ハイセンスで小うるさい読者を相手にするよりも、ここんとこの「腐女子ブーム」掘り起こしなんての、「作者への愛」を手綱とした従順な羊達の小金をまきあげる方が利益あるからに過ぎない。残念ながら売上高みても、書籍サブカル全般の下落傾向とBLも一である。
とはいえ、それに熱狂したりハマるのが別に良くないといっている訳ではない。ここ30年ばかしの、やおい〜801〜腐女子〜BLのラインを見てても、小さい島が増えただけで全体モードにはなっていない。全体モードに見えるのはメディアが商業可視化している部分だけ。ライトなサブカルオタクの為にする「非モテ」ゲーム等で主体ずらしでぐずぐずになる現在のサブカル状況に倣ってどーすんねん。>質ナキ量産なジャンル乱立

モードからの逃走

女性たちはブラジャーをするかどうか自分で選ぶという心地よさを味わってきたわけだが、今振り返って思うことは、この歴史的重大事が起こったのはわずか30年前なのだ。女性たちが不健康で不愉快な、体を締めつける服やブラジャー、ガードルやコルセットやガーターベルトなどを脱ぎ捨てたことは、女性の身体の健康とすばらしさを取り戻す歴史的でラディカルな宣言だった。

現代の若い女性たちは、自分の身体について、フェミニズム以前の女性たちがそうだったと同じように、自己嫌悪の固まりである。フェミニズム運動はたくさんのフェミニズム雑誌を生み出したが、これまでとは違う女性の美しさを見せてくれるフェミニズム的なファッション雑誌はこれまでなかった。性差別的なイメージを批判しながら、それとは違うイメージを提案しないなら、問題は真に解決したとはいえない。今あるものを批判するだけでは真の変化にはつながらないからだ。本当を言って、美のあり方を批判してきたフェミニストたちは、それでは健康的な選択とはどんなものかについて、徒に女性たちを混乱させてきたのだ。

しかし、美についての性差別的な基準を根本からなくす闘いをやめてしまえば、あるがままの自分と自分の身体を祝福でき、愛することができるようになったったフェミニズムのすばらしい成果をも失ってしまう危険をおかすことになる。多くの女性たちが次第に、女性美についての性差別的な基準を受け入れることの問題性と危険性に気づき始めているとはいえ、わたしたちは、こうした危険をなくすのに十分なことをしているとはいえない…つまり、新しい美のイメージを創ってはいないのだ。

実際には、美を否定するようなフェミニストはほとんどいないのだが、マスメディアは、それがフェミニズムだと宣伝している。フェミニズムが再び、美容やファッション産業に目を向け、30年前に始まった、いまだなしとげられていない美の革命に力を注がないかぎり、女も男も自由にはなれないだろう。そのときまで、わたしたちは自分自身のかけがえのない一部である自分の身体を愛するすべを知らないだろう。

ベル・フックス『フェミニズムはみんなのもの―情熱の政治学

ヌーブラ〜身体矯正下着をチョイスできる現在は、女性独自の価値観を付加してどーよ!勝負下着・見せブラ展開もしているので、矯正下着=家父長制抑圧の象徴としてしまうことは、「女性性発ファッション」という主体を軽視することになるので要注意。
ブラとガードルを脱ぎ捨てスカートをくさしていたフェミ最先端モードは、ファッションを素通りして、嗜好性を強めてエコ・フェミなどといっていたかとおもいきや、突然サイボーグ・フェミでボンデージ=フェテシズムに逆舵をとり、そのままクイアに突入してった。そりゃあ、んな趣味ない女性は混乱するわな。。。
フェミニスト・デザイナーとして、深町玲が「ReiWAOUEK?!」というファッションブランドを立ち上げたが、、、「西洋フェミ思考とアジア手わざの融合」という手垢まみれなイメージ以上のクリエイト*1は見えなかった記憶が。。。>http://www.harajukushinbun.jp/headline/198/index.html

田中美津は、近代日本のジェンダー秩序を「女は男に媚び、男は社会に媚びる」といったけど、何かを肯定することで間接的に自分達を肯定するというやり方の背後に見え隠れするマッチョ文化に、いつもいつも貴重な陣地を奪われて撤退することで自己を守ってきたのは伝統的には女性エリアだからなぁ。無論上野千鶴子はそんなやりくちは十二分に把握してそれを逆に戦略としてきた彼女の口からは、もうひとつの本質クリエイティヴのモードやアート牙城に対する有効打が出ないのだけどね。フェミは、むしろそういう他の本質を避けるようにしてフェミニズムアートとか「女子の〜」というジャンルに籠って、ひたすら下位構造を腐すことによって、下位構造自体の底上げを図ってきたみたいだ。でも、そんなジャンルの内輪でいくら評価されても、その外界社会で評価を受けないものは、果たして独立したジャンルなりモードなりアートになるうるのか?ということは、誠実な行為思索者ならば当然気が付くハズ。そんなにしてまで守りたい本質って、いったいどれくらいのものかって現代的問いをフェミはどう処理しようとしてるんだか、なんか又裂きになってるそれを昨今の「バックラッシュ」を利用して修復することに意識がいってるのかな?>『脱アイデンティティ』 
服飾という意図的表現はなによりも視る・視られる表象にあるのに、その肝心の視ることを軽視して立ち位置「自己フィクション」の意味にたよりすぎること(そこでプロレスをすることで自分達の領域を保守する虚構)が、視線のポリティクスを誘発してしまう。>id:hizzz:20050410#p6 偏在するフィクショナリティ騒動*2でみられるようにBL・腐女子(&百合)にとっての最大の不幸は、その「生態」=風俗現象ばかりとりざたされて、その「表現」活動=文化はいつも蚊帳の外だってこと。
「見た目にこだわる奴は中身が空っぽ」という本質主義だと、どうにも表象たる服装に対して時には望みは叶わないと非モテ的被害妄想・疎外的になってしまうものかもしれないが、それじゃあ服飾クリエイティヴは無視されたも同然じゃん。社会と共同体と自己身体との間に、自己の足し引きの余地=自己の見せ方・隠し方という思考=de-signはないのであろうかいな?ぷんすか。
服装もライフスタイルの一部と考えれば、衣装の意匠をチョイスしたりあだこだ評価することは、とどのつまり自分を評価することと相成る。ひたすら異質を主張したいんであれば、その場で非難されうるであろう格好を、女装して女性と愛し合いたいのであれば当の女性が愛する女装をすればよいことなので、それにはたゆまぬ精進(さまざまなグルーミング)が必要だってこと。TVで女装してるおネエMANSにしても、女性は自分好みとそうでないのとにシビアにチェックされている。>おっさん*3
男装・女装でのトランス失敗は、大抵は男物・女物のカッティングルールに自己身体を合わせようとせずに、サイズを合わせようとしてるから。脳内身体はともかく、装い=身体が判っていないことが可視化してるだけ。そこでケミカル&外科的テクで装う身体をさっさと拵えようとする者も出てくるが、それは全然服飾クリエイティヴぢゃあない。第一いったっきりで往来にはならんしね。
既製服(プレタポルテ)には、男性用男物と女性用女物の他に、ゲイ用男・女物がある。ゴルチエを筆頭に、マッチョだったらビッケンバーグか。ペニス付女物、タマ無男物という服は海外デザイナー物で多様にあるし、その日本ヴァージョンはもっとソフトなので、まずはそんなのを試したりして自分なりの着こなし術を磨いてから、日常にあだこだいってみてもよいであろう。ちなみにオサレ系とされる「裏原宿」は、どれもモードとしてはチンピラ以上にはなっていない現状なんで、ひとつ、間違えないよーに*4。なんでかというと、この人たちもインスタレーション性が欠落したままパターンで2次元的な服を拵えていたから。ちなみに、現在ギャルソンをのぼりつめた渡辺淳弥は、どーみても自覚的オタ服(インスタレーション性&絵画の欠損→2次元造形の徹底)だとおもうのだが、どーだろう。
しかし、BL等に籠る前に日本にはも一つ「ファンシー」という膨大かつ巨大な地場がある。この造形完成度は完全にモードである。したから、このあいだキティがディオールコレットの提携でパリコレに登場する。アタマの悪い日本のモード評論家達はついこのあいだ迄、ヴィトンにキティのチャームをつけてるギャル達を馬鹿にしていたのだけどね。「かわいい」もトコトン追及すれば凄味と化す。かわいいフラットの極地の強度がこれまでのモードのコンセプトをひっくり返す批判性を獲得するという、「いかにアートを舜殺するか」という今日日的仕様だからである。<いや実はひっくりかえされているのは、山本耀司三宅一生川久保玲スノッブ御三家なんだけどね。*5うひひ。<転んでもタダでは起きない性悪欧米
そういう凄味こそがモードとなって、またそれがコードとしてそれに合わない身体性を排除するのであろう。万人に似合う服なんざ装う役割を果たしていないのと同等である。大本尊たるモードへの挑戦も批判もない服装をいくらしてても、それは時代と共に流れるダケで「コード」としては確定しないであろう。

*1:その手は、ミラノなどの各西洋メゾンのほうがはるかに上をいっている

*2:http://tanshin.cocolog-nifty.com/tanshin/2008/05/post_df4f.html

*3:経験上でいうと、プロ仕事してるゲイはすべからく、漢臭職人かたぎ。半端なリーマンこそが女の腐った臭。

*4:ナンバーナインとかアンダーカバーといった、頭角を現してからの「次」がなくて資産くいつぶして息切れしてる例。もっとヤラシクいえば、キャズムを越える才能を追加出来てない状態。ま、今のサブカル全体がそうなんだけど。

*5:社会に於ける「男女の階級性」だの「性の非対称」だのをひたすら問題にしてきたフェミニズムが、この御三家を野放し=批評を避けて通ったヘタレっぷりたるや(なのにダイアン・アーバスのような小娘には教育的指導したがり僻id:hizzz:20040220#p3)、あんたたちこそ「オリエンタリズム!」