あなたのいるところだけなにもない

ネットやマスコミこぞって意味を見つけ解読しまくるアキバ無差別殺傷25歳のケータイサイトの書込をid:kmiura:20080610#p1さんは詩のように編集したが、それで上記のフレーズを想い出した。

あなたのいるところだけ何もない
ひしめきあう事物のあいだで
あなたのいるところだけ何もない

ゆきひらのようにゆっくりと落ちていくわたし

見つめれば見つめるほど
遠のいていく



さえも消えて

ああええううああええうう
をくりかえす沼の中の仏僧たち
の舌先は、しろく、ひからびて
うたはうたを失い
もう沈むことさえもできずに
ただ くりかえし そして
くりかえし

やがて
近づいてくる
初めは、体温のように
それから、まなざしのように
近づいてくる
いないはずの わたしたちが
まばたくうちに蘇る
はばたくうちに鳥を生む
立ちあがる
耳たぶの後の翼ひろげる

水よ
水という言葉の中に湧きいでよ
竹よ
竹という言葉つきぬけて
わたしのうたの中まで伸びよ

「祈祷」『あなたのいるところだけなにもない』多和田葉子
http://www.human.niigata-u.ac.jp/~masami/Music/WordAndSound.htm

25歳の慟哭とは違って、言葉と自己のズレ=流動するアイデンティティの楽しさを味わっている多和田であるが、「あなたというものの目を通してわたしというものを実感しなければならないような、そういう自分というものから解放される必要があるのではないか」「わたしを見ているあなたというものの存在を否定して、ちょうど鏡のなかに何も映っていないような、そういう空間を通過することが必要ではないか」とその制作動機をいう。
毒を綴ることで、次々意味を持ってそのつながりを実体としまう「言霊」に自身が囚われるのは作用反作用の法則ではあるが、もう一方でその逆作用もまた可能なのが、言葉の機能。

みんな一緒への適応障害

認識している世の中の常識と自己の在り様が一緒でないことに25歳は悩んで嘆き、その25歳的環境に至った若者を怪しからんという年上もやっぱり世間知・常識からズレた身勝手な者として叩き、またそんなシバキを見た者も、、、やっぱり共感や思いやりが足りない世の中と問題者の切断作業を嘆く。。。でー、そこに共通しているのは、世の中と個々の在り方は(無論その一緒の在り方は個々違うのではあるが)一緒でなければならないという大前提は微動だにしない。ぅううわーー。息苦しーことこの上ない。ので、「自分が認知する世の中の常識と自己在り様が一緒でないこと」に対する個人の内面問題は一向に解消しない。「みんな」でも「あなた」でもない、自分で実感出来るあたし自分自身でどうにかしない限り。>自己承認
大抵の「疎外感」というのは、みんな一緒という平均・均一状態からハブにされるということなんだが、そんな平均・均一をもって良しとする平等主義というのは、格差をなくすモダニズムの大目標でありつづけた。>id:hizzz:20080110#p1ふるまい=型としての一致団結、id:hizzz:20080401#p3なさねばならぬ何事も、日本主義の戦後
しかし、その単一ロールモデルの実現化の後退が「格差社会」として可視化されてきた現在に於いて「疎外感」にベタに共感しまくることは、個々人をロールモデルへの過剰適応に追い込むことになりかねない。共感連帯というのは、共同体「ルール」と個人信仰「モラル」とを団子状態にするので、共感できない者へは、反感=排除に容易に結びつくもろ刃の剣である。
戦後民主主義の根幹である、思想・信条・良心の自由が人権として保障されてるのであれば、当然のことながら個々の感情=心=モラルは、てんで勝手でばらばらであるからこそ多様性が、そこからのオルタの可能性が保持されるのである。そのばらばらの行動を規制する為に「あなた」の上位概念の「みんな」のモラル=ロールモデル等の規範にハメて方向統一すること心の共有や矯正ではなく、行動そのものに関する合意「ルール」を人工的に暫定しておくことなのである。それを、モラルとルールを混同して、意にそわぬ他者の心やモラルといった内面に踏み込んでそれを自分側と同一にしようとオルグするから、土足で内面に踏み込まれそうになった者は「抑圧」を持つわ、それを反発しようとして又同じように相手のモラルを疑い、そうしてたかだか1意見相違から容易にアンモラル=全人格非難合戦に陥る不毛がおこるのである。そうして実は、絶対他者同士よりも、同質・親和性の高い者同士の方が、こうした齟齬が起こりやすい。なぜなら、同類項とて完全一致しうる全行動に於けるモラルを共有することなんて、あり得ないからと、同類項だからこそよく判り過ぎるお互いのアンモラル=全人格非難合戦ネタがつきない。>兄弟や親子とか モラル重視な共同体で、内ゲバが終わらないのもそのせいだ。
そんな共同体と他者との関係として例えば「非モテ」「非コミュ」は、「あなたというものの目を通してわたしというものを実感しなければならない」という、抽象化した実態のない「あなた」=「彼女」に自己認知の媒体となる意味と強度のフェイクコミュであるので、現実の女性は耐えられない訳だから、無視するしかない。マジそれに付き合おうとすると、適応障害となるであろう。しかし、「みんな」や「あなた」とは違い続ける絶対的他者であるあたしを常に認識しつづけること=個の独立は、孤独ということでもある。それはつらく淋しい。でも見出した「あたし」は捨てられない、あたしの手の中に。その表面でもいいから、外界とは触れあぅていたい。>「複数形の私」=わたしたちでホカホカする
で、そのセカイで作り出され続ける「○○女子」幻想=「みんな」や「あなた」のロールモデルに合わせた自己を作り込んで、限定的に愛想を振りまく商品化されたフェイク女子が登場する。○○女子の風俗化。
そして「非モテ」「非コミュ」は、そんなレイヤーさんたち=「あなた」を見いだし続けることで自分達セカイを意味づけ、そのセカイ的意味付与をレイヤーさんたちに与え続けることによって、ようやっと状況客体から傷つかず=自己責任を問われないで状況主体に移動しようとするゲーム。そんなバーチャルゲームはうそら寒いと糾弾するオヤジ&ババア世代だって、実は「処女と少女と娼婦に淑女」とか「母と妻と職場秘書と酒場のママと愛人と娘という6つのママ」な規範に主体を塗り込めるロールモデルごっこを営々やってきたんだけどね*1。>願望にかなわない事実よりも、 願望にかなったウソを追及しつづけた遂行的矛盾 id:hizzz:20080521#p3

*1:毎日と三浦展(出ました!奥さん)の「かまやつ女id:hizzz:20040626#p1につぐ、懲りないマッチポンプタッグ「日本溶解論」。六条華改め楠城華子に代わるロールモデルは、大沢エリー。>『テーマは、「常識崩壊? キャバクラ嬢に憧れる若い女性」。銀座のホステス出身の人気作家・蝶々さんを迎えて、宮崎哲弥さんとお送りします。』TBSラジオ「アクセス」http://210.165.9.64/chochochan/e/b6aeaf9da95f7d4f55b87091cdf01a5c 『キャバ嬢になりたい女たち 社会が生む夜の蝶…でも決して甘くない』 毎日新聞http://news.goo.ne.jp/article/mainichi/life/20080618dde012040002000c.html

ココロ平等社会にはりついてくる、不安解消という名目の全体主義

刑事訴訟法は「判決は確定から六カ月以内」に法相が刑の執行を命じなければならないと定めている。死刑制度がある以上、それに従うのはやむを得ないとの声が多くなっているのは確かであろう。だが、宮崎死刑囚の裁判は刑事責任能力の有無が争われ、判決が確定するまで約十六年もかかっている。にもかかわらず、心の闇が明らかにされ、「なぜこのような事件を起こしたのか」ということが十分に解明されてこなかった。
宮崎死刑囚が、自ら引き起こした連続誘拐事件をどう考えていたのか。幼い命を奪ったことを反省していたのかどうか。刑の執行によって遺族に対する気持ちも闇に葬られてしまったが、彼自身の心の動きについてもっと光を当てる時間があってもよかったのではないか。

沖縄タイムス社説『[宮崎被告に刑執行]心の闇を閉ざしたまま』
http://www.okinawatimes.co.jp/edi/20080618.html

要は、「心の闇」を「反省」という言葉で宮崎が表してから死刑執行せいということなのかな。いや、しかしそれを求めるのは裁判中であり、そこで刑執行に値する1個人格と司法最高決定機関が下した以上、それと同等に黙秘権その他が被告の意思として存在していることを、人権として尊重すべきであろう。それをなにがなんでも、ほんのちょっとでもいいからこちら社会の常識=反省吐露をさせなければ、こちらの「心の闇」が払えない=みんな均一社会という前提がくずれる不安なんだろうな。>共感=情状酌量の余地を許さない絶対個人=異質への畏怖感
それよりもなによりも、それを求めうる責任主体は、どこの誰某と具体的に問わないことが、この文章では不明なまま、茫漠とした感想を持って社説として通って澄ます世界こそ、ちょー怖いんだけど。>法律か、裁判所か、裁判制度か、精神鑑定か、収監制度か、死刑執行制度か、等々

日本では、「連携」「調整」「協力」などという美辞麗句が飛び交い、「みんなで仲良く心をひとつにして」といった安直な発想から、権限と責任が不明確になり、マネジメントに支障をもたらしていることが少なくない。また、こうした美辞麗句が飛び交うときは、権限を持つ「決めるべき人」が「責任をとるということ」を回避するために、決めるべきことを「決めていない」という場合も多い。
例えば、会社でも行政機関でも、日本の組織ではよく起こることだが、「決定」や「査定」などを行う権限を持つ「上」の部局と、提案や要望を出す「下」の部局がある場合、下の部局の提案・要望について、上の部局が「おりろ」(取り下げろ)と言ってくることが多い。…自分で「決定」を行った場合は、その決定について責任が生じるからだ。…こうしたこと(責任問題)が起こると、上の上に対して上の部局は「下が下の判断でおりた」(責任は下)と考え、下の部局は「上の指示で撤回した」(責任は上にある)と考えがちになり、「外」(行政の場合は国民)に対する責任も曖昧になってしまう。さらに、「上」からの意思表示が、「おりろ」ではなく「いかがなものか?」などという疑問文である場合さえある。
このように、日本の組織では、「上が強権を発動すること」よりむしろ、「上が決めるべきことを決めない」ことによって問題が生じていることが多い。実は、第二次世界大戦中もこのことを原因とした失敗が少なくなかったのだ。

岡本薫『日本を滅ぼす教育論議

主体なきモダン

説明されてきた近〜現代のモダン変容図式が、どーにここーにも掘れば掘る程、日本の近代文化史実に合わない「ご都合主義」にしかおもえないので、さんざんカキコしてきたように、「絶対神と主体なきモダン成就」という当の西欧的常識では在り得ないアクロバット的客体をめざす矛盾なんだろうなと、ぼんやりとワタクシ考えてた。が、さっくりとひとくさり解析してくれている著書に出会った。

ポストモダニズム」ということで列挙されている特性は、近代日本においては日常茶飯の事柄である。近代日本の知識人が求めた近代化とは、こうしたポストモダン状況をモダンの方向に向け直す努力のことであった。プレモダン→モダン→ポストモダンという進化形式を日本に直接当てはめることはできない。明治維新以前を大ざっぱにプレモダンと概括すれば、そのあとに続くのは鹿鳴館に象徴されるポストモダン的状況である。モダンがあるとすればそのあとである。
モダンを目指す明治100年以来の努力も、モダンが一時代を画せるほどまでに徹底できたわけではない。日本が西欧にキャッチアップしたと欧米の知識人に認められた1970年代は、日本の近代化がいわば頂点に登り詰めた時期といえるが、その時点は同時にポストモダン論の受容され始めた時期でもある。…近代日本においてモダンの制覇を語ることができるとすれば、それはたかだか思想・理念のレベルにおいてのみである。
明治100年の間で変わったのは、現実ではなく、そうした現実に対する評価である。
西欧においては、ホストモダンは、モダンの自己展開の結果もたらされたものとすれば、日本では、モダンをオリジナルなコンテクストから移し替える中で生じている。…非西欧圏では、ホストモダンは西欧からのモダンの移転によって生み出される、社会全体に関わるひとつの型と見なされるべきである。
(和魂洋才的)ハイブリットモダンは、非西欧圏の近代化の中でもたらされるものであるにしろ、「近代化論」の枠組みでそれを適切に処理することはできない。というのも近代化理論は、ものごとの変化を時間軸上に並べて理解する解釈図式だからである。文化の空間移動の問題を扱うのを得意とするのがグローバリゼーションの論理である。モダン変容のなかで、ハイブリットゼーションの問題が決定的に重要になるのは、社会変動のパラダイムがモダーニゼーションからグローバリゼーションへとシフトしたことの1つの効果に他ならない。
西欧と非西欧との遭遇が、強制と従属によって果される時代が帝国主義とすれば、選択と受容をモティーフに敢行されるようになるのがグローバリゼーションの時代であろう。
グローバリゼーションという過程を、土着主義にアクセントをつけて理解するのが「ポスト・コロミアズム」だとすれば、西欧で最初に生まれたモダンに着目して理解しようとするのが「ハイブリットモダン」論である。ポストコロニアリズムとハイブリットモダンの両者に通底しているのは「異種混合としてのグローバリゼーション」という見方である。植民地化されることなく近代化に成功した近代日本は「異種混合としてのグローバリゼーション」を端的に示す最初の事例といえるだろう。

厚東洋輔『モダニティの社会学―ポストモダンからグローバリゼーションへ

さて近代では、人々の個性を抑圧するのではなく、自己実現を許し・促進するような集団が好まれ、合意や契約が守られることを前提として「アソシエーション」が組まれる。そのアソシエーションの対極をなすのがコミュニティという集団類型であり、それは共同性・共属感情を核として集団としての一体性(アイデンティティ)が生成すると著者は見る。アソシエーションは、社会の異質化を推し進め分化させてく力をもち、人々が多様で個性的な存在となるように促すがコミュニティは、社会の同質化を促進し、人々の心の中に、仲間意識・我々意識を植え付け連帯強化させ力であり、近代社会は両方の微秒なバランスの上に成立している。
西欧社会でその2つの原理をつないでいるのは、個の「契約」観念に基づいた公衆なのだが、、、非西洋の都市では、アソシエーション形成する中で共同・同質化されて完結しようとする忖度と慮りの関係性のタコ壺に入って社会化されることがない「私人」。大抵はアソシエーション内で、情報/価値観/アイデンティティ全ての共有をごっちゃにして求めるコミュニケーションを目指して閉じており=村、アソシエーションの外へのコミュニティ形成に向けたコミュニケーションという考えはまるでない。ので外社会に向けては、まったくの「私的」な利害が「あたし」人間解放なマンマ相互に果てしなく対立・抗争し合っているか、毒を燃料としてあちこちでバーストしまくる者のケアで周囲疲弊消耗。ふぅう。。

人間解放というロマンと、共同体による制圧欲望

私公の区別はなんとなくついてても、コミュニケーションとエクスプレッションの違いが判ってない人が結構いる。
共同・同質化を深めるプロセスとしては、忖度と慮りの関係=互譲性による繋がりがメインであるから、空気まで読んでひたすら共同体がクローズアップした「あなた」に共感して、自己を顧みて反省表明したりもして、その共同体維持の為に精進しなければならない。いやそんなのたまんないと直感的に思うものは、共同体の面前で「グレ」たり「キレ」たりしてエクスプレッションして「あなた」化しようとする。
もすこしソフトには、エクスプレッションの権化であるアート行為をするアタシには社会認知されうる公共性があると短縮して、社会での個を確立しないまま、共同体の中で自他認知というサロン的自己実現めざしたアーティスト症候群という手段もとられる。
そのロマンを最大レベル実践にしてトドメをつとめたのはオウム真理教であったハズなんだけど、その後の「ワールドワイド」「68年革命」の大はしゃぎと「終わりなき(バブりー)日常」=普通幻想は「格差社会」到来ということで、強制忘却。もう、右から左まで歴史修正、都合の悪いことは全て、代替わりってことで知らないことはなかったことに。なかったことは考えられない。寄らしむべし知らしむべし。グローバル化同類項の波に打ち勝つ反動エネルギーを保つ為には、更なる異質を社会スローガンとして次々に打ち立てるしかない。かくして現状生態とは関係ないまま、当事者主義とは名ばかりのエクスプレッションが誇張された、おたく〜ひきこもり〜ニート非モテ非コミュワープアといったような「ワンフレーズポリティクス」のとっかえひっかえの消費が始まっている現状ではないのかな。で、それこそ*1が人間解放というロマンと共同体による制圧欲望の2つを充足してくれるもっともアクチュアルなものとして。
邪悪、清楚、素朴、献身、誠実、、、もっともっと「純粋なココロ」を見たい。でも、それが現実世界では齟齬をきたすのならば、現実とは別腹セカイの中心で愛を叫び、感動にどっぷり漬かって身をふるわせたいあたしたち。でもあなたのいるところだけなにもない空間に向かって。異者とはその視線さえ交錯しないそれが、「異種混合としてのグローバリゼーション」の現実を活きる者なのか。。。