自他関係

自分とは違う他者は、いったいどういう自分とは違うことを考えているのかということを知って、又相手にもそういう相手とは違うことを考えてるということを知ってもらうっていうところに、コミュニケーションは、会話は、他者関係はあるのだと思う。その「他者」という延長戦上に考えるもある。ところが、封建社会なままで考えるをやろうとすると、上記したようにその社会ってのは同類項共同体なんだから、同類項以外の考えるは全て「可笑しい」「ヘン」ってことでオミットされる。違うってことでオミットされなくても、でもその違いを認めたくなくってすぐフレーミングになるしね。そんなのツラいから、そうすっと皆自助努力しはじめるんだよね。自己規制ての。それで、せっかくのぽわんとしたネタを自分で切り捨ててしまう。そのネタとともに、その先の可能性も一緒に。ただ、今ココにいづらくらくないようにする為ダケに、深く考えないようにする。
考えないからハナシも自然と口に出しやすいあいずちやなぞりとかばっかしになって、尚更表現は後退する。フィーリングだけの戯れ。そのフィーリングも似たもの同志だから、同じ表現をぐるぐる廻してるだけに始終する。同じ語彙で同じコトを同じプロセス同じ者同志で考えてたら結果も似たり寄ったり多数の類似が出来るだけなのに、そうしながら新しい考えはナイものかとか聞きあきたとかいいあってる。…おもいっきしアタマ悪いよな、ソレって。
自分の考えなんてものは、自分の外に一回出してみないと、一体自分がナニを考えていたのかなんて解らない。こうやってカキコしたりして出して改めてその出たものと自分が対話してくことでしか〈個〉のアイデンティティって育たないんだよね。
そうしてそれを他者にオープンにすることによって、クソつまんない〈私〉の支配をヌケだして〈公〉の居場所にいって、自分とは違う〈個〉と対話することが、他者と関係するってことだと考える。
まあ、全ての関係は一夜にしてならずなんだけどね。オレ様も不思議ちゃんも、手をヌクとひどいシッペ返しが必ずくるということかな。