棲み分け

儀礼的無関心」はクールな「棲み分け」をすることで、「慮り」のウエットさを軽くした関係という幻想をもたせ、内部での軋轢=排他という暴力を避け、関係の中に取込もうとする智恵だ。自分がメタになって一つの他者世界を意味付与して眺めるということでもある。自己権力の発動だということなんだけど、それを「アーキテクト」で自動的にやることがラクで便利となると、いつのまにかメタな視点の自分が消滅して、技術が決める社会ってヘンなものになりゃしないかな。啓蒙&教養主義ってのがつっ走ると現実を忘れるからなぁ。
そうするといつまでたっても〈個〉は起立できない。いや、俺は出来てるというネットエバンジェリストは、急速に一般(多様)化してくネットについて今一度、中世的な「不自由な中の自由&平等でいる自分」という特殊技術既得権益で、本当の多様性を不問にしたままでの専門特化特権的「酬」でしかないということを忘れてはならないだろう。そんな立場から、安易に「互酬性」を持ちだすのは一方的搾取=支配権力への強制となるかもしれないってことだ。だから、そんなメンドくさい関係性なんかゴソゴソすんの嫌ってコマンドライン特権にしがみつきたい人は裏に裏にコモるんだけどねー。視点を変えてパンピーからすればそれは、他者に関られるのを嫌う専門同人ニーズに他ならない。
はてなで自己吐露「日記」が目立たないのは、はてなのキーワードでは「通常言葉」が整理されてリンクからはずされてるからだろう。無論、それは「キーワード」本来の使用意味にとって意義あることである。
こういう具合に「儀礼的無関心」で消極的対応を意識するよりも、様々なblogなどのコミュニティツールによるスキルによるガード=同人化で、ケータイメールしかやらない若者層というのがネットのすぐ外にあるように、むしろ、今はこういった「棲み分け」階層細分化に加速かかってるんぢゃないのかな?